映画「野のユリ」を観た。
「野のユリ」での、黒人の旅人・”シュミット”の礼拝堂建設は、日々凡庸に暮らす民衆たちの埋もれた信仰を浮上させる一つの出来事であった。独力での完成を夢見るシュミットの姿が、町の人々それぞれの内なる信仰心を具体化させたのであった。部外者である旅人・シュミットが孤独に礼拝堂建設を開始し、その神秘的でかつある種の不気味さを目撃した村の人々は、その建設作業にポツリポツリと加わりはじめる。自己の内で礼拝堂の建設を完結をさせたかったシュミットは、はじめは拒みながらも徐々に村人たちの手を受け入れていく。上映当時のアメリカ社会を鑑みれば、キャストも含めて相当スリリングな映画の内容だが、そんな社会的テーゼは敢えて押し殺され、作品は牧歌的な光景に満ちている。
シュミットと村人(と牧師たち)のこの物語は当然ながらキリスト教の宗教的道徳に覆われている。けれどもその全体性は、宗教的教示、奇跡、あるいは一つの観念などとしてのしかかっているものではない。映画の中では神なる超越的な力を思わせる場面は出現せず、また感動に浸るあからさまな人間も出てこない。彼らはそれぞれ、少々の見栄と良心の間で当然のように時間を過ごし、礼拝堂の建設に参加した。
私は、そんな、一つの偶然と日常性の延長の中で生まれたこの礼拝堂こそが、「建築」であると思う。そして何人かの内なる全体性に幾重にも包まれたこの建築に、神とは異なる、あるいは神以前の霊性を見たいと思う。建設過程と映画の物語自体を礼讃しているのではない。この建築自体に、形や外観内観の問題ではない、美しさ、そして崇高さを感じ(※1)、そしてそんな建築を形として作りたいと思う。
自分のそんな映画に対する感想、物体と非物体が混ざりよじれた感覚を、やはり私自身は受け入れざるを得ない。
森、歴史、庭、荒地と、建築の周辺を迂回しながら、建築を目指したいと思っている。
昨今の周辺の騒がしさを聞きながら、恥ずかしながらそんな整理をしてみた。
※1それは、エドマンド・バークがいくつかの場面と物質的側面から論じ立てた美や、崇高さともどこか異なり、あるいは九鬼周造の「いき」についての段階的分析によってもストンとは落ち着き難いものであった。もしや、と思って「野のユリ」を観たあとにその二冊に手を出してみたのだが、どうも説得されなかった。私の読解力の不足か、あるいは思い込みがそうさせたのかは解らないが、それは私自身にとっては有難いことである。
2015年6月24日
佐藤研吾