「神話や儀礼は、しばしば主張されたように、現実に背を向けた「架構機能」の作り出したものではなくて、それらの主要な価値は、かつてある種のタイプの発見にぴったり適合していた(そしておそらく現在もなお適合している)観察と思索の諸様式のなごりを現在まで保存していることである。ある種のタイプの発見とは、感性的な表現による感覚界の思弁的な組織化と活用とをもとにしてなしえた自然についての発見である。 」(※1)
レヴィ=ストロースが未開人たちの世界の中から取り出した、「呪術的思考」とは近代科学の論理体系とは別の体系をなしていた。つまり人間の直観、芸術で言えば美的・詩的感覚レベルでの体系化、科学より先立って生まれた「分類学」の構築であった。彼らのその思考は自然世界に対する彼らの緻密な観察から始まっている。モノをめぐる人間の想像力は本来そういうものであり、科学者がつくりあげた近現代科学の諸体系および高度な工学の諸原理でさえもそれはモノを見つめる観察眼と直観あってのものであろう。
世界に存在するあらゆるモノが模倣であるか、もしくはどこかに必ず参照元があり、それを集めまとめあげたものである。すべての事物の発生が過去に支えられている。その参照・模倣元のほとんどが過去の自然もしくは人間たちが生み出した事物である。このことは近代的自我の存在をただの幻影に至らしめ、過去の幾多のモノたち(亡霊)が作り上げたものであることに気づくべきだろう。仮に自我が在ったのだとしても、それはモノの内にあるさまざまな秩序の系の中からある一つの秩序を取り出すときの知の選択についてでの直観に近いものなのかもしれない。こうした受容的感覚が創作のための思考の基礎的支柱でなければならないと私は考える。
建築を主たる活動の場としていこうとする我々が生きる時代はもはやただ意味もなく物体を作り続けることはできない。それは、建築を生み出す社会および経済システムへの不信感や、建設ラッシュへの倫理的な嫌悪とともに、いわゆる近代を超え得た我々が持つべき自らの生きるための中枢がどこにあるのか、を模索することに関わる。都市の表層と成り果ててしまう建築の記号的な側面を超えたところにある、建築の「意味」、とくに自分自身がその建築を作る意味についてを考えなければならないのである。もちろん、創造についての萎縮思考、後退的な思考などではなく、時代の展開の重要な径の一つであることを直観しながらここに記している。
※1クロード・レヴィ=ストロース、大橋保夫訳『野生の思考』、みすず書房、1976年。