涯ての国というものがあるとするならば、そこは電車に乗れば行けるのだろうか。
ときどきそんな風に取り留めのない思考に耽る。
かの有名なジョヴァンニは、汽車に乗った友人に何処までも一緒に行こうと約束したけれどもその約束はかなわず、星天を見上げ涙を流すだけだった。
そもそもそこにレールが敷かれているならば、それが途切れる場処にたどり着く筈だ。
水平線に終わりは無いし、宇宙は途方にくれるほど広い。
科学技術が向上し人が進化を繰り返す度、此処では無い遥か遠くの別の世界は、少しずつ色彩を失い息絶えていった。
反対側の線路でけたたましい警笛が鳴り、僕は我に返った。車窓の光が待合室の窓に反射しながら遠ざかってゆく。
僕は反射的にコートのポケットから懐中時計を取り出すと時間を何度目かに確認した。まだ先程時間を見てから半刻ほどしか経っていなかった。
深夜の待合室は静まり返り、ホームにも部屋の中にも人の気配は無い。まだ終電には随分余裕がある筈なのにも関わらず、まるで世界でたった独り此処に残されてしまったかのような心細さを憶えた。
コートの内ポケットを探り、五本目の煙草に手を伸ばそうとした時、待合室の扉が不意に開いた。
突然の事に少しばかり驚いて顔を上げると、青白い顔をした痩せた少女が立っていた。
「座っても、構いませんか」
濡れ羽いろの髪を切り揃え、白い上品で慎ましいレース襟のついた黒いワンピース、黒いタイツを身につけた少女は、細く囁くような聲で言った。
「ああ、勿論」
僕が空いているベンチを指し示すと、少女は長い睫毛を伏せてぺこりとお辞儀をした。
「お邪魔してごめんなさい。・・・この荷物が重くって」
そう言う少女は大きな黒革のケースを背負っていた。
「チェロです。楽器の」
僕の視線を感じてか、彼女は僕に視えやすいようにケースを前に押し出した。しっとりとよく馴染んだ黒いケースは、なるほど確かにくびれた弦楽器の形をしていた。
「君が弾くのかい?」
少女はこくりと小さく頷く。
「今夜、プラネット・オペラのソワレで歌うんです。チェロを弾きながら」
プラネット・オペラ。聞きなれない劇場の名に僕は首を傾げる。そもそもこんな時間から、まだソワレを演る劇場があるのだろうか。
少女は俯いたまま黙っている。
短く揃えられた前髪が睫毛に濃い影を作っていた。
細い肩にも小さく柔らかに重ねられた指先にも、少女には気配というものが何も無い。ひっそりとした夜の空気が凝り固まって少女を形を成したようだった。
「君は何処から来たの」
「・・・此処から少し離れた、海辺の街です。私はあるオーケストラのチェロ弾きだったのですが、楽団の中では落ちこぼれでした。どうしても遅れてしまうんです。・・・このチェロのせいなのです」
溜息のようにぽつぽつと唇から零される言葉に、僕は黙って耳を傾けた。
「毎晩毎晩、眠る間も惜しんで練習しました。友人が、青いトマトを差し入れに持ってきてくれました」
少女は頬の辺りをそっと掻いてからチェロのケースを撫でた。
「ある晩、歌の先生と一緒に練習していた時の事です。先生は仰いました。『あなた、そんな小難しい曲なんかやめて、歌いなさい。チェロを弾きながら歌いなさい』って。それから私は、チェロ弾きの歌手になりました」
少女は指先をぺろりと紅い舌で舐めてから語り終えた。
「今日は私が歌手として舞台に立つ、初めての日なのです」
染み入るように呟いた少女の聲は耳に心地よく、この聲が紡ぎ出す歌はどんなに美しいだろうかと思えた。
今夜は街に戻らなければならない。彼女の出るソワレに行くことは叶わないだろう。けれど、次の公演があれば。
「君の次の公演はいつか、教えてくれるかい。チケットを一枚買いたいんだ・・・」
財布を取り出しながら顔を上げて、僕はあっと聲を上げかけた。
黒々とした生き物のようなチェロを抱えた少女の姿は忽然と消えていた。
まるで初めからそこには誰もいなかったかのようにベンチは冷え切っている。
「何処に・・・」
辺りを見回してみたが。迷い込んだ黒い猫が待合室から出ていく他、何の気配も感じなかった。
「あなたも電車を待っているの?」
突然背後からかけられた聲に今度こそ悲鳴じみた聲を上げて煙草を取り落とす。
振り返ると、すぐ隣に帽子を被った女がいつの間にか座している。歳の頃はよく分からない。薄い唇に笑みをかすかに湛えて、丈の長い紺色のワンピースを着て、旅行鞄を抱えている。曹灰長石の光のような、不思議な色の虹彩を持った瞳の色が目を引いた。
一体いつ待合室へ入ってきたのか。
得体の知れない不気味さを感じて、僕は彼女から少しだけ距離を取った。
「そんな顔をしなくても、お化けや幽霊じゃないわ。私がずっと此処にいたのに、あなたが気づかなかっただけ」
ずっと隣にいたのに気づかない?そんな事があり得るのか。
タタン、タタンと反対側のホームを電車が通過する。車窓からの光に照らされて、線路沿いに咲くりんどうの花々が蒼白くきらめいていた。
「貴女も電車に?」
「私はここで待ち合わせをしているのよ」
こんな夜更けの駅で待ち合わせ?
そうも思ったが、女性の持つ大きな旅行鞄を見て思い直した。もしかしたら本当に誰かと待ち合わせして、これから寝台特急にでも乗るのかもしれない。
「そういえば、あなたは随分不思議なものを鞄に入れてるのね」
足元に置いた僕のトランクを見て、興味深げに彼女は言った。中身を見ずとも、これが何だかわかるのだろうか。
「私も鉱石を持っているの。鞄を動かした音でわかったわ。あなたは宝石職人さん?」
「鉱物商だ。今日は仕入れに遠方まで出かけた帰りだった。ひと月ほどかけて世界中の鉱脈がまだ生きている街で、鉱石を買い集めるのさ」
茶色い日に灼けたトランクに鍵を差し込み、バックルを外す。中を開けて見せれば、女性はプレゼントの包みを開けた少女のようにはしゃいだ聲をあげた。
中には美しくみずみずと透きとおった色にきらめく鉱物が、綿にくるまれていくつも身を寄せ合っていた。
「綺麗ね」
氷の化石のように透きとおる水晶、銀河の底の砂のように青白く光るトパァズ、虹の欠片を閉じ込めたオパール、淡く燐光を放つ黄いろや紫の螢石。
一つ取って手渡せば、爪が青く塗られた指の上で螢石がちかりと光った。
「僕の住む街に、馴染みの宝石職人が住んでる。そいつの眼鏡に叶う鉱石たちは、みんな美しい宝石へと生まれ変わる。まぁ、僕はこのままの状態でも自然で好きだけどね」
職人の仕事は偉大だ。何万年かけて作られた光を探り当て、余分なものを一つ一つ取り除き、鉱石にとって一番美しい姿、評価されるべき価値を与える。
「あなたの仕事も同じくらい素晴らしいわ。自分の仕事や鉱石に誇りと愛情を持ってる」
女性に飾り気のない言葉で言われ、僕は大層動揺してしまった。
僕が返す言葉を見つけられずに黙っていると、そうだ、と女性が明るい聲を上げた。
「あなたに見せたいものがあるわ」
彼女は自分の鞄の中から、天鵞絨でできた紺色の袋を取り出した。飾りに雲母のような薄いスパンコォルが縫い付けてある。中から銀いろの小箱を取り出し、中をこちらに開けてみせる。
夜天が融けたような、菫青石によく似た鉱石が脱脂綿にくるまれていた。
「旅のお守り。月の鉱脈で採れた石だそうよ」
「月の・・・?」
女性が促すままに燈りに鉱石をかざす。
ただ菫いろだと思っていた鉱石の中に、無数の星屑がまたたいているのを見つけて息を呑んだ。
「此処で出逢えた記念に、あなたに差し上げるわ。私もまさか、こんな場処で出会うと思っていなかったから」
何に、と問おうと振り返り、僕は目を見開いた。
女性の姿は影も形もなく、はじめからそこに誰もいなかったかのようだ。
チェロ弾きの少女に続き、彼女まで。
狐につままれた様に立ち尽くしていると、電車の音が聴こえてきた。パンタグラフから青い火花を散らし、光とともに列車はホームへと滑りこんでくる。
僕は鞄を手に取って、そして気がついた。
ホームからの光に照らされたベンチの上。
女性が座っていた筈の場処に、青い花びらが数枚落ちていた。