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2F/当番ノート

free 参る 夜明け前⑥

当番ノート 第27期

6月29日(水)の夜10:00過ぎ、新宿駅南口のバスタ新宿前、眼前に剥き出しのアスファルト、
肌色のフレコンバッグ、傘に雨がポツリ。この雨に色は無い。この雨に色は無い。

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写真と文章は無関係です。只今7月6日の1:00過ぎ。この連載にも一応締め切りがあって、
優にその日にちを過ぎており誠に面目ない限り。
1週空けて2日間の東京行脚を終えて(今回もありがとうございました)冒頭の景色と僕の仕事場のパソコンの
ディスプレイの画面がリンクした。1966年のパリ市立近代美術館での工藤哲巳のハプニング「あなたの肖像」の写真。
この写真で工藤はサングラスをかけ左手でビーチパラソルを傘のように差して立っている。
傍には2つの鳥かごの中に入った脳、それと対になる2組のデッキチェア、そこから人間の手が生え、
下着やストッキング、手足や頭部の皮膚が同化している。
ちょうど良いタイミングで伺えたその日5軒目のお客様を訪問後、晩飯を済ませ、久しぶりに読書をしながら
立ち飲みで一杯。そのあと新しく出来た無機質と有機質が合わさったような商業施設を見たあと
彷徨うようにその場所へ。

大阪の国立国際美術館で「あなたの肖像ー工藤哲巳回顧展」を観たのは2014年の1月 。
僕はこの芸術家について全く知りませんでしたが、奥さんは学生の頃に1994年に同所で開催された
「工藤哲巳回顧展−異議と創造」を観ていて、今は移転された美術館近くのお店でフライヤーを
手にすることが出来、展示を見ることが出来ました。

工藤は東京藝術大学在学中から、戦後の前衛美術の牙城であった読売アンデパンダン展に出品し
「反芸術」世代の代表格となるも、どこのグループにも属さず、60年代前半からパリに渡り
「学び」にではなくヨーロッパを「治療」しに行くと言う気概を持った芸術家。
ラジカルにラジオアクティブに、早過ぎるサイバーパンク。ミニマルでトライヴァルに
時を追うごとにその標的は人間至上主義〜前衛を捨てた権威〜自己の内宇宙と研ぎすまされて。
僕には初期の増殖性連鎖反応と言う作品がナウシカの瘴気を放出する粘菌に、男性の生殖器の
オブジェが王蟲に見えました。
と、当時の僕のつたない感想を転記するとこんな感じなんだけど、ご本人曰く

「現代の複雑な政治経済社会、それと複合したテクノロジー社会の中で、Art とは、独立した
芸術至上主義でもなければ、国家や、イデオロギーに奉仕するための飾りでもない。
Art とは自分(我々)自身に対する「疑い」と「挑発」の為のメディアなのだ。
テクノロジーのクソダメ中でうごめくアナタと、私の挑発的なコミュニケーションなのだ。
それは全てを問い直すこと。全てを疑うことから始って、我々が宇宙の中でどのような存在なのか?
宇宙の中での人間の自由とは何か?そして社会の中の個人の自由とは何かを考えること、
その為の思考の為の模型が Art である。」

だから60~70年代の一連の作品のタイトルは「あなたの肖像」でありアナタは作品を観る僕であり
あなたであり、工藤自身であったのかもしれない。

「ヒロシマの原爆以来、日本は世界の為にモルモットのような役目を果している。最初に原爆による
生体実験のモルモットとして、次に、戦争後のエコノミック・アニマルとしての経済成長実験モデル、
次に世界で最も進んだポリューションの実験場として。そして今、マスコミ、マスメディアの最も発達した
人間集団の見本として。日本はいつも実験室として、日本人は忠実なモルモットとして実験データを
アナタに提供する。少し皮肉を含めて云えば、日本はアナタ方に対して、つまり人類に対して殉教者のように
奉仕しているようにみえる。」

パリで行われる個展の為、1974年にこの文章は書かれている。

15’SS(2014年4から6月頃作成)のコレクションカタログの表紙はサブタイトルを
「If? Ifu? Ifuu? I who?」(もし?畏怖?威風?わたしは誰?)とし、工藤が挑発した人間至上主義の
対局とも言える?自然至上主義のシャーマンの祈祷と工藤のハプニングを対比した。

改めて今回これを書くにあたって奥様へのインタビューも読んでみたがパリに渡ったと言っても
お世辞にも裕福とは言えない食うや食わずの時期もありながら孤高の活動を続けた覚悟、
その短い一生の中での表現の純度の高さが、晩年制作された多彩な糸を使った作品ではないが、
観る人や周りの人を巻き込み続けたのかも知れない。

選挙の結果もこれが掲載される頃にはももう出ているだろう。
工藤が生きていれば80歳、未だモルモットであり続けるであろうこの国をどのように挑発、
そして治療するだろう。いや、治療が必要なのは僕自身かもしれない。
人間中心主義に陥った人間が行きつくところに行きついた逆説的なパラダイス=ディストピア/ユートピアを
提示することで、いくらテクノロジーが発達したとしても、人間とは改めて自然の、宇宙の中のちっぽけな
一部の存在でしかないことを僕は工藤から教わった気がします。

全てを問い直し、疑い、自分自身の頭で思考し続けること、そんなあなたの肖像を見つめる機会。

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萱澤 有淳

萱澤 有淳

hito - ito - saredo
http://saredo-watanowa.hatenablog.com
https://www.facebook.com/saredo.watanowa
https://www.facebook.com/wata.no.war.in.cottonproject

Reviewed by
akira kusaka

胸にささる言葉の数々。先人たちが撒いた種は、今僕たちが生きている時代にちゃんと咲いているのだろうか。思考を続けることの大切さを、改めて実感したお話です。

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