アマリがまだ 海の底で揺らぐ粒子だった頃、老いた人魚から様々な伝承歌を聴かされていた。
その歌は時間をかけて命に染み込んでいき、人魚を形成する核となっていく。
”泡沫人は揺蕩いながら 光の彼方へ遠ざかる
交れば命は永遠となる 神様からの捧げ物
掠れることは許されど 染まることは許されぬ
喰らうことは許されど 堕ちることは許されぬ”
気づけばアマリは歌っていた。かつて感じたことのない、言い知れぬ恐怖を和らげるために。
それは人の魂を喰らい尽くす破滅の歌だったが、ぽかんとした表情を浮かべている様子から、毛むくじゃらには何の効果もないように見えた。
毛むくじゃらは訝しげにアマリを見つめる。
「きみ、大丈夫?急にのどを鳴らしたりなんかして。どこかくるしいの?」
「…ええと。ごめんなさい。大丈夫。
その、見つかることを祈ってるわ。あなただけのさかな。わたしは用事があるから、もう行くね。」
この不思議な生物を前にすると、自分が自分ではなくなるような、何とも言えない不快感があった。
アマリは無理矢理に会話を終わらせて、毛むくじゃらにくるりと背を向けて泳ぎ出した。
”ボチャンッ…”
別れを告げ数秒も経たない内に、何かが海の中へ落ちる音。
その何かが何なのか、アマリは瞬時に悟り、ため息をつきながら海の中へ潜った。
「…だから、水の中では死んでしまうって、わかってるはずでしょう。」
抱っこした毛むくじゃらをもう一度岩場に乗せて、諭すように語りかける。
「さかながどこにいるか、きみは知らないの?大抵は水の中だよ。」
「…そうね。とにかく、あなたがあなただけの魚を探すのは自由だけど。
目の前で自殺行為をされたらこっちとしても、気分がいいものじゃないの。第一あなた、泳げるの?」
自身の言葉に矛盾を感じない訳ではないが、アマリの正直な気持ちだった。
「前に進むのはむつかしいけど、沈むことはできるよ。なかなかうまいって、評判だよ。」
それ泳げないってことじゃない、アマリはこの言葉を飲み込み、毛むくじゃらにある提案をした。
「…わかったわ。わたし、あなたの魚を探す手伝いをする。見つかるまで、そばにいる。わたしは海の生き物だから自由に泳ぐことができる。あなたをおんぶして、時々海の中に潜って、あなただけの、たった一つの魚が見つかるようにサポートをするわ。どう?」
「そいつは名案だ!」
毛むくじゃらは嬉しそうにへんてこな踊りを踊った。
毛むくじゃらの歓喜の舞に、アマリは思わず笑顔になっている自分に気づき、困惑する。
なぜ突如現れたこの不可解な生物のサポートを、自ら名乗り出てしまったのか。
それは自分ではどうしようもない、衝動であり本能だった。
幼い頃、老いた人魚が初めて恋をした時の話をしてくれた。
恋をする者と対峙した瞬間、最初は”いやな感じ”がするのだそうだ。
ぐるぐるとめまいがして、吐き気がする。
大きな鉛を飲み込んだように身体がぐったりとして、耳鳴りがする。
逃げ出したくなったり、その場で泣きわめいてしまいたくなるのだそうだ。
それはこれからまるで違う魂と魂が交流することを、全身で感知するからだと言っていた。
「ねえ変なこと聞くけど、いい?あなた、人間じゃないよね?人間の、それも男の子じゃ。」
「ぼくはぼくだよ。人間じゃない。どちらかと言えば、ねこだよ。」
「ねこ?それはあなたの名前?」
「わがはいはねこであるが、名前はまだない。」
「あなた、本当に変わってる。ねこさん。わたしは人魚。人魚のアマリ。ってさっきも言ったけど。」
「あまり?」
「そう、それがわたしの名前。
そうだ、あなたに名前をつけてあげるわ。…毛むくじゃらなねこさん。ケムクジャラナネコサン。ん〜。」
「ムジャン。あなたの名前。ムジャン。どう?」
「むじゃん。ぼくの名前?」
「そうよ。ムジャン。さあ背中に乗って。わたしが知りうる限りの、いろんな魚をあなたに見せてあげる。」
アマリは毛むくじゃらのムジャンを背中に乗せ、
一番最初に思い浮かんだ”さかな”のもとへ、意気揚々と泳ぎだした。
suicide cats in seaside④へ続く