服の素材や形に関する感覚が掘り下げられたのはおそらくこれの時だな、と思い当たるものがある。
学生の頃に、すべて麻で製作した作品だ。
悲しい時に着るものについてぼんやりと考えていて、日本の昔の喪服は黒ではなく染めを施していない白や生成りの麻だった、という事を知り、それに興味を持って確か作ったのだった。
麻の光沢は上品だけれど無骨な感じを受けるし、個人的にとても粋な素材と思っている。
そういう相反する印象があるところも好きだから、いわゆる自然派ほっこり系のような麻の使い方はあまりしたくなくて(そういう服は既にたくさんあるし)、もっとある種の強さを持った服にしたいなといつも思う。
乾燥した麻の手触りにも惹かれる。
洗ってくたっとしたり皺が寄ったりしても枯れた木のような存在感をまとっていて、その崩れ方を計算して作られた服は着れば着ただけ格好良くなる。
学生の頃はそのあたりのことがあまり分かっていなくて、作ったものを私服で着て洗ってみたら伸びてほしくない所が伸びてしまい、本気でがっかりしたことが何度もあった。
ストックしている生地は、言うまでもなく麻が多い。
色んな素材を見ているとき、「この生地は良いなあ、これで服が作りたい、衣装が作りたい、あああ」となるのも麻が多くて、心底素敵だと思ったものは作る予定が無くても買ってしまうから、当然の結果だ。
学校では、ファッションはポジティブでなければいけないと教えられた。
服の世界では死やネガティブなことが根底にあるというのはタブーで、それこそ正式な喪服でもないかぎり、ファッションは人をわくわくさせたり着る人を魅力的に見せなければいけないんだよ、と。
不特定多数の人に売る服のデザイナーになる事が目標だったときはその教えを疑わずにいたが、「数を売る」ことにあまり興味が持てなくなってみると、もっと悲しみや寒々しいことについてをある美しさとしてとらえて服を作ってみてもいいのではないかと思った。
嬉しいことも悲しいことも起きる人の日常に服は常にあるものなのに、「服の世界」なんて誰が作ったのだろう。
自分の作った服が、悲しくて仕方がないときのための服として着られたっていい。
そう思うようになってから、毎回ではないがさらに好んで麻を使うようになった。
たくさん使って着崩れて皺ができても、その時間ごと包みこんで、美しく佇んでくれる。
目下計画しているのは自分用の寝間着で、麻と絹の混紡を使いたいと思っている。
とにかく気持ち良くて楽な寝間着にしよう。
寝ているときに宅急便が来てもそのまま玄関へ出られるものであれば、なお良い。