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2F/当番ノート

あたらしい星座を結ぶみたいに

当番ノート 第30期

部屋に流れる音楽、テレビをつける習慣がない私にとってそれがなくては落ち着かない。
インテリアがキャンバスに描かれた静物画だとしたらそこに流れる音楽は額縁のようだと思う。

好きな音楽があると部屋は一層私のものらしくなるので、ふっと心ほどけるのがわかる。
ただいま。帰ってきたな、灯りの点いた部屋に緩んだ気持ちと疲労が同じ分だけ広がっていく。

随分長く、それで十分に楽しんでいたし満足していたはずだった。
音楽はずっと前から私にとって豊かなものだったけど、フレームアウトするほど揺さぶられることもまた、なかった。

「音楽」がこんなにも私のなかで切羽詰まった存在に膨れ上がったのはいつからだろう。

音楽はもう「聴く」ものじゃない。
聴く、というのは椅子に座り向かい側から音楽が流れてくるのを手のひらで掬いあげていく感じ。
そういうんじゃなく、いつの間にかそれは「生きる」ものになってしまっていた。
音楽のなかに広がる景色を、生きる。
生きたい音楽に胸を焦がし、そのなかを泳ぐことを思って心はひりひりする。
高校生の時はキャロル・キングに牧歌的な原っぱを
ノラ・ジョーンズに沈んだブルーアワーを、音楽のなかに見つけては夢中だった。
好きな音楽は私の身体が細胞でできていることを思い出させるようにひとつひとつを震わせて
音を耳以外で感じる感動を伝えてくれる。
同時に、わたしの目の前にはっきりと音楽の景色が広がっていく。
湖の朝霧、赤い部屋、絵本のなかで見たような月夜などが意志をもって立ちあがる、そんな具合に。

音楽を前に私は旅人になる。
額縁としての音楽が平面から飛び出してくるのを感じて、大やけど承知の旅にでる。
ヘタするとそれは私の小さな人生の進路を変えうるので、ほんの少し勇気がいる。
だけど躊躇するひまを音楽は与えずに今いる場所から誘いだす。
私は嬉々として足を踏みだし、またときどき簡単に踏み外す。

私はたびたび、音楽を目の前に息継ぎのできない気持ちになる。
冷静さを欠いた情熱は「距離感」を測り損ねて、自分がいまどこに立っているのかさえ見失う。
音楽に対して演奏者でもないのに同時に傍観者でいることには我慢できない、
矛盾だらけの私はその音楽のなかを生きることで関係を持とうと必死みたい。

いつだってその音のなかで私に一番近いものを探している。
それは必ずしも音楽のなかに見出す必要はないのだろう、
なのに私は音楽のなかにじぶんを発見することを諦められずにいる。

そういう意味で、私と音楽に冷静な距離感はない。

好きな音楽との出会いの衝撃はいつだって、恋に落ちるスピードと同じ。
音の振動がからだに伝わって、身震いした時にはもうさっきいた場所に私はいない。

自分の境界線が融けてしまうことにいつでも焦がれている。
好きでいるだけで満足できたことなんか一度もない。
その人の心のなかを知りたい、と思うことはその人を生きてみたい、と願うのとも似ている。
同時にそんなのはすごく傲慢だとも思う。
好きな人を自分のことのように知ることなんかできないし、もちろん独占も支配もできない。
結婚したってそうなのに。

そんなことは百も承知の上で、いとも簡単に最適な距離感を測り損ねる。
その人の人生はたしかに私のものと交わっているけど「重なっている」わけではないことを、すぐに忘れてしまう。

その人を生きてみたいと思うことはそれでも、時にじぶんに見えてる世界の角度を変えられるエネルギーに満ちていて
誤解や失敗を経験しようと、その時の純粋な気持ちに私は何度でも魅入られてしまう。

一筋縄ではいかないなあ。
考えることに痺れをきらした私は、答え欲しさに怪我することも厭わず
答えらしきものが入っているとみた箱に体当たりして無理やりここまでやってきた。

だけど、このまま壊しながら進みつづけて「本当のこと」から遠ざかったらどうしよう?
私は『銀河鉄道の夜』でカンパネルラがいうような「本当の幸い」というものを思い浮かべてみる。

音楽に胸を打たれるとき私が触れたいのは
その音にさざめきたつ自分の記憶に潜んだ、生に対する問いかけなのかも知れない。
そしてその問いはきっと、対峙しないかぎりは私の目には形を持って現れてくれない。

そちらとこちら、冷静な距離がなければ。

ものごとの渦中にいるだけでは、必ず行き止まる。
本質を見なくても迷路から離脱することは簡単。今までみたいに壁をぶち壊せばいいんだから。
だけど今は
音楽でもインテリアでも(つまりは生きることの)、「本当のこと」を自分の言葉で名づけてみたくて仕方ない。
今度こそは、強行突破ではないやり方で。

不思議なことに私の20代はずっと音楽をきっかけにした変化に富んでいる。
まるで手を引かれるように出会いが重なってそのおかげで新しい場所に行ったり、はたまた悩んだり。

音楽も文学も芸術も、自分の運命を揺るがしかねない。
だけど揺れに呼応しない水面はすでに死のほうに近いみたいでつまらない。
運命なんて変わってしまえばいいよ、それさえ私が知らなかっただけで予定通りなのかもしれないじゃない。

最近出会った年上の友人たちは自分の情熱を持て余すことなく、
境界線を恐れることなく、たっぷりと好きなものを好きでいることで飛びぬけていて
それは大人の距離感にも見えるけど、より鋭い感覚で好きなものを理解して
心が求める範囲内でじぶんの内側に留めている感じがするので羨ましい。
熟練されている。でも張りつめていない。
私はすっかり憧れてしまう。

距離ができてそのスペースに漂う自分との関係性やより幸福な繋がり方を、星座みたいに捉えられたとき
私も、彼らやあなたみたいに
とうとう音楽のなかに溶けた「本当のこと」の無垢な粒を掴まえて離さず、生きられるのかな。

松渕さいこ

松渕さいこ

interiors 店主 / 編集・企画 東京在住
お年玉で水色のテーブルを買うような幼少期を過ごし、そのまま大人になりました。2019年よりヴィンテージを扱うショップの店主。アパートメントでは旅や出会った人たちとの記憶を起点に思考し、記します。「インテリア(内面)」が永遠のテーマ。

Reviewed by
ひだま こーし

今回の松渕さんのレビューを読んで、渾沌の神話を思い出した。
好きな話なので、あらすじ書いちゃおう。

むっちゃくちゃ大昔に中国に渾沌(こんとん)という神様がいて、
二人の友達神(名前忘れた)とよくつるんでたらしい。
渾沌はいいやつだったんだけど、のっぺらぼうで、
ある時それを気の毒がったその二人が、
「ふつうは顔に7つの穴があるけど、あいつにはないよな。」
「いまさらそれ言う?」
「でもさ、あれじゃあ彼女の一人もできなさげだ。」
「って言うか、お前は彼女いんの?」
「……」
「あ、いや、ともあれ、じゃあ友達としてその穴を俺たちが開けてやるとかどう?」
「そうそうそれを言おうとしてた。」
「あいついいやつだし、そうなったらリア充への道まっしぐらだぜ、きっと。」
「それは俺たちの腕次第でもあるけどね。」
「それな。」
みたいな相談事をして本当に穴を開け始めてしまったらしい。
しかも渾沌ってよっぽど大人しい性格だったのか、なされるがままだったらしい。
で、7つ目の穴が開いた途端、渾沌は息絶えてしまったらしい。

要は、カオスのような流動的でとらえどころのないものを無理に分節化すると、
その本質が失われてしまうということなんだろう。

音楽に同化してしまいたいほど恋してしまう松渕さんは、
この狂おしい恋慕の相手の正体を突き止めたいらしい。
切ないなあ。

なんか今ふと、テレビ版エヴァンゲリオン第六話の中で
碇シンジが綾波レイに「笑えばいいと思うよ」と言ったシーンを思い出してしまった勢いで、
ぼくは「踊ればいいと思うよ」と松渕さんに伝えてみたい。
そしてそんなオタクネタをかき消すように、以下偉い人たちの引用↓

そして踊っているところを目撃されたこれらの人々は、
音楽を聴き取ることのできない人々によって狂っているとみなされたのだ。
by フリードリヒ・ニーチェ

ダンスっていうのは魂の隠された言葉なのよ。
by マーサ・グラハム

踊るの、踊るのよ。じゃなきゃ私たちは迷子のままよ。
by ピナ・バウシュ

なんでもかんでもみんな、おどりをおどっているよ(中略)タッタタラリラ
by さくらももこ

流れ繋がっていく刹那を音楽になって踊れたら…気持ちいいんだよなぁ。

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