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2F/当番ノート

ひらかれながら、ひとりをさがして

当番ノート 第44期

けっきょく、わたしにとって町とはなんだったか。
アパートメントの連載の話をいただいてから二ヶ月のあいだ、これまで訪れたいろいろな町をよすがに、経験したこと、考えることを書いてきた。わたしはまちがいなく「町」というトピックに惹かれていて、どうにかそれを自分を通して書いてみたかった。

思い入れのある町とない町のこと。同じ町に重なったいくつかのできごとのこと。町に紐づく、あったかどうか不確かな記憶のこと。また町自身が記憶するなにかのこと。遠い町で暮らすひとの生活のこと。町ぜんたいをぼんやりとまなざすこと。そして町が持っている「わからなさ」のこと。
てんでばらばらのことを散りばめるように書いてきたけれど、ふりかえってみれば、どこか通底する部分があるようにも思える。

ひとと関わりあうことが生活の欠かせないパーツになったのはいつからだろう。
いつのまにか、仕事でもプライベートでも、ひとの話を聞いたり、うちかえしたり、書きかたを教えたりする時間が増えた。そしてできればこれからもそうしていきたいと思っている。
相談に乗ることが多かったからかもしれないし、思春期に依存したがりな女の子と恋愛してさんざん振りまわされたからかもしれない。あるいはわたし自身が、そのあと登校拒否児になったり不信にとらわれたりして、わたしと関わりあってくれる存在を希求していたからかもしれない。
とにかく、誰かと会ったり、相談されたり、共に居たりすることを、わたし自身も求めているようなのだ。大学のころはマジックや着ぐるみアクターをかじったり塾講師をしたり、ケアや傾聴やファシリテーションを勉強したり、いろんな関わりかたを試した。いまは書き、場をひらくところに集約しているけれど、そのどれにも関わりあうことへの根源的な欲求がひそんでいる。
だが、ひとと関わりあいたいと望むことは同時に、失望とさみしさを連れてくる。相談を受けても、相手の痛みを肩代わりすることはできない。進んで困難なほうに向かおうとするひとに必死で説得をしても伝わらない。いちばんわかってほしい相手にじぶんのことをわかってもらえない。そしてときにわたしも、誰かがその瞬間のすべてを賭けてわたしに伝えようとしたことを、あっさりと取りこぼす。
誰かと関係を作ることに対する怖れもある。大切になってしまったら、わかりあえないことの重みがいっそう増すように思える。また誰かと関係を築くことは、ときにほかの誰かを排斥する。わたしはとにかくそれを怖れていて、仲良くなりかけた相手とのあいだに一定の距離を保ってしまったりする。

「町」に目が向くようになったのは、なにかそうじゃないものが欲しかったからかもしれない。
町は複雑で、わかりづらくて、大きい。だから、ひとりで町にいればわかりたいともわかられたいとも望まなくてすむ。目の前のまったくわからないものを、ただ、そういうものとして見ることができる。
それが小気味よかったのだ。ひとりを見ようとする視座も持っておいたままで、身体や意識はより大きなほうへひらかれてみたかった。

それが、どうだろう。わたしときたらこの二ヶ月、町のことを書いているようで、けっきょくひとのことばかり書きつづけてしまった。
町を見ようとして書けたのは、かつてここにいた自分や自分ではないひとのこと、もしくは町を作りあげるだれかの手や生活のことだった。町そのものについてはほとんど書かなかったのではないか。わたしの見る町は、ひとと、ひとの作ったものとでできていて、そのなかにはもういなくなったひとも、もともと存在しなかったひともいる。
他者の集合、存在と非存在の集合、そして、そのひとつひとつが持つ膨大な気配。それが、わたしが書きたかった「町」のすがただった。

ところで、「目の前のまったくわからないものを、ただ、そういうものとして見る」というのは、わたしが日頃ひとに対してとろうとする態度でもある。それはいわば後天的に獲得したもので、順序としてはむしろ、そのようにひとと接するようになったから町に惹かれるようになった、というほうが近い。
そういう態度は、せいいっぱいの尊重であって、また明るいあきらめでもある。町が複雑でわからないのと同様、目の前のひとのことも複雑でわからないのだと見なす。わかりたい、わかられたいと望むことを、はなからストップしてしまう。すると、いくらか楽に関われるようになるのだった。

でも、それだけでは済まないのかもしれない、と思いはじめている。
町のことを書きたかったのに、ひとのことばかり書いてしまった。歩いていると、誰かが捨てていったカップ飲料のゴミや、玄関前に停まった三輪車や、電話する声、かぎりなく個別のものにばかり目が留まる。町全体を見るのと同時に、誰かたったひとりを見つけたがっているような感覚。おおきなわからないのなかに、なにか、わかりたいと思えるものをさがしている。
それは、まったく共感できない相手に、それでも耳を傾けてみるときのちいさな動機と、よく似ている。

ひらかれようとしていながら、ふたたびたったひとりを向こうとしている。それは、ひとりから空間へ視点を敷衍することと、うまく循環するだろうか。失望やさみしさ、そして怖れと、ふたたび付きあっていくことはできるんだろうか。
そう思ったとき、あらためて町の、いま居るところの、なんて広いこと。

この、立ちつくしたような中間地点で、二ヶ月の入居期間の区切りとしたい。ほんとうに住まうような二ヶ月間だったとおもう。町にはもう、前からとっくに来ていたような顔の夏が降りている。
お世話になりました。また会いましょう。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
辺川 銀

くじらは街を育む。海に沈んだひとつのくじらの身体に幾千万のいきものが集まり街を作っていく。そうしてできた街のどこかでひとりとひとりが今日も出会っている。

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