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場のバランスをとる

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

わたしがいわゆるひらかれた場を志向したのは、仲間はずれにされることへの原初的な恐怖からくるものだった。

思春期にさしかかったころから同級生のコミュニティになじめなくなった。自分のアイデンティティをふりかえると、わたしはもともと多層にマイノリティである。第一に両性愛者であること、つぎに発達障害をもっていること。物心ついたころから家族でカトリックを信仰しているので宗教的にも日本では少数派であり、おまけに母からは琉球民族の血を受け継いでいて、当時は無自覚だったとはいえ、エスニックマイノリティでもあったかもしれない。でもそのうちのどれが明確な理由というわけでもなく、なんとなく、他人とグループを編成するのが苦手だった。わたし自身も乗れなかったし、向こうのほうでもそんな人を構成員にするのは疎ましいだろう。

それでいながら、仲間はずれになるのはおそろしく、さみしかった。複数人でつるむのを面倒に思っている一方、周囲はみんな仲のいい友だちがいるのに自分だけそこに加えてもらえないのは、権利を不当に奪われているような怒りとむなしさを呼んだ。当時はクラスメイトを見下したり、ときに憎んだり、逆に自分自身を手酷く否定したりしたものだったが、大人になって狭い学校コミュニティから解放されると、べつに特定のだれが悪いわけでもなかったと思うようになった。

つまりはこうだ:特定のだれが悪いわけでもない、同じ人どうしが固定されたコミュニティに寄りあうのがよくない。人がばらばらでいるときには、わたしから見るとみな魅力的に見え、それが集まりだすなり俄然おそろしく、不可解になる。人はだれかと親密になると、どうしても、悪意がなくとも、親密でない人を排外したくなるものなのではないか。

バイセクシャルであるのと同時にモノアモリーでもあるので、排外したくなる気持ち自体はわたしにも覚えがないわけではない。それがむしろ怖かった。つねに気をはらっていなければ、わたし自身もすぐに誰かを仲間はずれにしてしまうだろう。

なので、自分が場をひらこうというときには、まずは仲間はずれにされていたころのわたしを拒まずに済む場所にしたかった。幼いわたしはひどく気むずかしく、排外の気配を感じとるとサッと逃げ出してしまう気がする。大人になったわたしが、思春期のわたしを仲間はずれにするがわに回るのは嫌だった。

そのために気を配っていたのは、大きくは「ないないづくしの場づくり」でも書いた四つだ。

一、メニューの値段を極端に高くしないこと。

二、前提知識や準備を必要とする企画をやらないこと。

三、払ったお金の額によって態度やサービスを変えないこと。

四、常連さんにしかわからない話をしないこと。

わたしはこれらをひそかな禁則として守りつづけていたけれど、自分だけの力ではときにむずかしいのが四だった。

お店に長く立っていると、どうしても常連さんができてくる。本来ありがたいことで、また場の魅力を評価してもらっているようでうれしくもあるけれど、同時にそこに固定されたコミュニティが築かれるのはいやだった。

常連どうしが仲良く盛り上がっていたら、はじめて来た人はとうぜん居心地が悪いだろう。もう一度来てみようとも思わないに違いない(リピーターになってほしいという気持ちは常連さんが増えると困るという気持ちと矛盾していそうに聞こえるかもしれないけれど、そうではない。常連さんとまったくの新規のお客さんに二分されてしまうより、そのあいだに階層が細かくできた方がいい。そのためには、何回めのお客さんでももう一度来てもらうに越したことはないのだ。もちろん、お店の営業にとっても)。

なので、カウンターのなかにいるときには、できるかぎり場のバランスをとる。といっても、意識的にイニシアチブをとって会話を盛り上げたり、逆にストップさせたりする能力はわたしにはない。していたのは、コミュニケーションが苦手なわたしでもできる、ほんのささいなことだけだ。

しょぼい喫茶店の間取りを説明しておこう。

店の真ん中に大きなカウンターが渡っていて、そこに八人が横並びに座れる。後ろにソファ席もわずかにあるけれど、ほとんど満席のときの予備席か、眠いお客さんの仮眠スペース、子どものいるお客さんが落ち着いていられる席、のような非常用としてしか使わない。

八席横並びだと、端と端で会話をするには遠い。お客さんが多い時にはだいたい会話が分裂し、店内で二〜三の話題が同時に進行する。でも、カウンターが扇型に湾曲しているので、カウンターのなかのわたしを介することで、場全体がひとつの話題に参加している、という感覚が生まれることもある。

わたしは基本的にそこまで自分の存在を主張せずに居るよう心がけていた(わたしがあまりに場の中心になることも特有の文脈を生み、はじめて来た人やわたしを知らずに来た人にとっては共有しづらいだろうから)けれど、そこはわたしがひらいた場であって、おまけにカウンターのなかという特殊な立ち位置をとっている以上、どうしても場に対する影響力は持ってしまう。それがもどかしいこともあったけれど、場のバランスをとるには役立つ。

たとえば、「あるひとつの会話の輪が盛り上がっているけれど、そこに加わっていない人もいる」状況では、加わっていない人のほうと同じぐらいの態度で過ごす。その人が話題に耳をかたむけ、ときどき笑ったりうなずいたりしているようだったらわたしもそうするし、まったく聞かずに別のことをしているようだったら、わたしも下を向いて洗い物や掃除なんかの作業をする。そうすることでその人がどう思うか、というよりは、空間全体に漂う空気を均質にするためだ。秤の軽いほうにわたしの存在で錘を置くような感じ。

また、「ある会話が盛り上がっているのと同時に、あまり盛り上がっていない会話が進行している」というときには、盛り上がっていない会話のほうだけに意識を向け、加われそうなときにはわたしが加わった。そうするとやっぱり、「カウンターのなかにいる人」特権によって、空間の中心点をそちらへ引き戻せるような感覚があった。

盛り上がっている会話のことはできるかぎり放っておく。ほとんど無視というくらい放っておく。どんなに盛り上がった会話もそのうちゆっくりと鎮火し、お客さんはどこかで、縄から手を離すようにひとりずつに戻る。それが全員が横並びになるカウンター席のいいところで、そうなったらまたあたらしいメンバーであたらしい会話が編みなおされる。「敬語禁止」や「実在しない恋人」なんかの会話する企画のときにはわたしはトリックスター的な役割も持っており、編みなおしを促すことができて便利だった。

それから、「ここに自分がいていい」という感覚が全員から失われていないか、というところもポイントだ。ある場である人がどれだけ「ここに自分がいていい」と思えるかという問題は、そのときの会話の盛り上がりとはまたべつにある。

輪から外れているのが常連さんで、中心で話しているのははじめて来たお客さん、しかもどこか話しづらそう、というような状況だったら、その人の話を聞いていられる位置に黙って立つ。カウンターの中の空間も横に長いので、立ち位置でもものをいうことができる。このときは、会話に加わるというよりは、その人がひと息ついて輪から落ちたとき、わたしもいっしょに落ちられるように準備をしている、というような感じだったと思う。とにかく、「ここは自分の居場所ではない」と悟るときのあの重たい身体を、お客さんにはできるだけ持って帰らないでほしかった。

誤解しないでほしいのは、わたしは自分がお客さんの気持ちをわかると思っているわけではないということだ。それぞれのお客さんがそのときどう感じているかは、予感はあっても、正確にわかるとは決して言えない。自分の気持ちを他人に勝手に解釈されるのはときにものすごく不快でもある。そうなることを避けるためにも、わからない前提で動いたほうがいい。

けれども、場全体がどのように呼吸し、どこで鳴動して、どことどことがリアクションしあっているかは、カウンターのなかにいると身体全体でわかった。もしかすると、仲間はずれになって人の輪を外から眺めていることが多かったからかもしれない。サーモグラフィ越しの世界を見ているように、各所に温度が見える。わたしは熱い色の周辺から離れ、冷えた地点へ寄っていく。

かといって、そうすることでわたしが場を操作できるわけではない。ただわたしがそちらへいく、というだけ。意思表示はできても、わたしの思った通りにはできない。場はいつもひとつの生きもののように予想外の方向へ進んでいき、わたしはその波のなかで揺られている。

もし、わたしがもっとコミュニケーションに器用だったら、お客さんどうしの会話をうまく回し、適切に話題を振り、全員に会話に参加してもらうかたちで仲間はずれをつくらないこともできたかもしれない。そう思うと、場から落ちている人がいたらいっしょに落ちる、つねに冷えているほうに与する、という自分の方針は無力で、たよりなく思える。

けれどもそういうふうにしているのが、なによりわたし自身にとっていちばん心地よかった。わたしは黙っていたいときには黙っていられるほうがいいし、盛り上がりとは縁遠い、ひとつずつ石を置いていくような会話に、ときにふるえるほどの魅力を感じる。

あえて前向きにこう言おう。コミュニケーションの能力がなく、また人と親密になるのが苦手なために、わたしはカウンターのなかに立っていられたのだ。

なんだかほとんど種明かしのようなことを書いてしまった。常連さんのことについては次回につづきます。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

ムードメーカーではなく、縁の下の力持ち。
一見消極的な役回りの積極性は、やっぱりわかりづらい。
わかりづらさを単純化せず、それでもわかるように紡ぐ向坂さんのことばは、しなやかでいて力強い。

向坂さんがカウンターのなかでしていたことは、具沢山のシチューをつくることに似ているかもしれない。
鍋底が焦げないように。具が割れないように。そうして、なるべく均等に火がとおるように。
目に見えない鍋のなかを木べら伝いに感じながら、根気よく、丁寧に、かき混ぜ続ける。
丸ごと蒸した野菜も、すべてがとけ合ったスープも、確かにおいしい。
でも具沢山のシチューには、やっぱりかなわないような気がする。

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