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常連というおそろしい存在

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

前回に書いたように、場を持つにあたって、そこに固定されたコミュニティができてしまうのがもっとも怖かった。お互いに親密な決まった顔ぶれが場を占めるようになると、はじめて来た人を仲間外れにしてしまう。

「しょぼい喫茶店」、特にわたしの営業に来てくれる人は、だいたいがインターネットで情報を得てやってくる。馴染みのない土地のはじめて入る店までひとりでやってくるのは怖いし、そのうえしょぼい喫茶店の入り口はドアがしまっていてちょっと入りづらい。そこを突破して来てくれた人に、「ここは自分の居場所ではなかった」と思わせるのはいやだ。

といいながら、もしかしたらそれさえ言い訳に過ぎず、本当のところは自分が仲間はずれになるのが怖かったのかもしれない。

自分がひらいた場なのになにを言っているんだと思うかもしれないけれど、逆になぜ場をひらいたからといって安心していられるのかと言いたい。誰でも仲間はずれになるときはなるし、経験上わたしはとくによくなるのだ。誰かを仲間はずれにしたくないのも自分が仲間はずれにされたときのあの感じを世界に再現したくないからであって、そう思うとどちらをメインで恐れていようが、出力はそんなに変わらない。

自分が仲間はずれになりやすいと、自分を基準に対策をうつだけでけっこう万全になるので便利だ。なんだか悲しいことばかり書いている。

そういうことを考えていた結果、「常連とはあんまり話さない」というひねくれた接客態度が誕生した。

もちろん無視をするわけではないけれど、基本はじめて会った人とでもできる深度の話しかしない。日常のコミュニケーションには話の内容によって親密度を確認しあう機能があり、そこをなるべくアップデートしないようにする。

すると、わたしの営業に通ってくれる常連たちは、わたしではなく他のお客さんと話すか、それもせずに店内のようすを静観しているか、のどちらかになっていった。そういうことが得意な人が多かっただけかもしれない。

しかし。いざ常連ができてみると、知っている人が場に座っている、というのは、相当にありがたいものだ。営業上ありがたいということももちろんあるけれど、それだけではない。

たとえば、わたしとはじめて来たお客さんがふたりでいるのと、その横に黙って座っている人がもうひとりいるのとでは、まったくその場の質が変わる。会話がわたしとの関係にならず場との関係になる、というとわかりやすいかもしれない。そしてそれはわたしがもっとも望んでいることだった。

ありがたいと思いながら、いつもどこかで申し訳なかった。わたしは会った回数に応じて親しさを深めていくことができない。接客上しないようにしているということもあるけれど、それ以前に、わたしにはもともとその能力が備わっていないように思える。人と仲良くなるのが苦手で、そのくせ人と話すのはけっこう好きで、結果として誰にでも同じように接してしまう。わたしと親しくなりたい人にとってはさみしいことだと、これまで何度も言われてきた。

だからわたしは内心、常連たちがなぜくりかえしわたしに親しげにしてくれるのか、合点がいっていなかった。まあ一時的なものでしょう、と思ってさえいた。

あるとき、わたしはめずらしく、営業中にお客さんのひとりに怒った。

その人は若者のコミュニティづくりのリサーチをしていると名乗り、情報収集のためにきたという。そのとき場には他にお客さんがふたりいて、ふたりともわりにもの静かな人だった。

情報収集はハイペースで進み、ふたりは聞かれることに手短に答えていた。インターネットで知って来られたんですか? はい、そうですね。よく来られるんですか? いや、今日がはじめてです。お仕事とかはされていないんですか? 就活中です。

リサーチの人はカウンターのなかのわたしを向き、

ここって就活で鬱になった人が作ったんですよね? それでそういう、仕事をやめちゃう若者とか、働けない若者みたいな人がコミュニティを作ってるってインターネットで見て、お話聞きたいなと思って来たんですよ。

と早口でいった。そのときにはすでに、わたしはその人に早くリサーチをやめてもらうか、でなければ帰ってもらいたかった。その場にいる人からはなにも聞く気のない、失礼な人だと思った。その人はつづける。

わたしの業界の若い人だと仕事でちょっと嫌なことがあってもそこはぐっと耐えて学ぶっていうのがふつうなんですけど、最近はそれで辞めちゃう人もいるんですってね。そういう人の気持ちって全然わからないなと思って、それで話を聴きたくって。

たしかそのとき、場にいたお客さんのひとりは休職中だった。侮辱だと思った。

頭に血が上りそうになったとき、常連が入ってきた。その人はほとんど毎週やってくる奇人で、いつも下駄を履いているから足音でわかる。

リサーチの人は彼を見て、また「コミュニティのリサーチをしてて……」とはじめる。そのとたん、常連はハキハキとしゃべりだした。「コミュニティといったらここの近所にある漢方屋ですよ」などといってむりやり謎の薬を見せ、しょぼい喫茶店のあった新井薬師という町の歴史を語り、しまいには趣味の筋トレを勧めていた。リサーチの人は笑顔で話を聞いていたけれど、長話が終わるとそそくさと帰ってしまった。

わたしは唖然としていた。あっという間に窮地を救われた、しかもこちらがひとことも頼んでいないのに。彼がわたしの怒りに勘づいていたのかは定かではない。でも、何か意思を持って、わたしと同じ方向を向いてしてくれたことのように思えた。

そういうことがそのあとも何度か起きた。その人だけではなく他の常連も、わたしが怒ったり困ったりするとサポートしてくれ、さらには他のお客さんに対し、わたしがするように接してくれた。つまり、前回に書いたように、場の冷めているほうへ向かい、誰とも話していない人に話しかけ、盛り上がりすぎない。はじめてのお客さんにはおもしろがって話しかけるけれども、常連どうしではそんなに話さない。

記憶にある限り、わたしはそういうことを誰にも解説したことがない。お願いするなんてなおさらだ。しかも常連たちも、べつにそれを義務的にやっているわけでもなさそうにみえた。ただ、その場によくいる人として、自然にそうしている。「ここはそういう場所だから」とでもいうように。

希望的な仮説がある:わたしと常連とは十分に親密になっていて、それでもだれも仲間はずれにせずにいつづけることができた。

わたしはどうしても言葉のやりとりに気をとられてしまうけれど、人が関係をむすぶとき、共有しているのは言葉だけではないらしい。常連はくりかえしやってきて、わたしと話す言葉はアップデートされなくても、時間と観察とはたしかに重なっていたのだ。常連はわたしがどのように居るかを言いもしないのによく知ってくれ、そして、意識的にせよ無意識的にせよ、ほんとうに大切にしてくれた。

わたしではなく、わたしが開く場が彼らと関係し、そして、愛情を注がれていたのだ。それは望外に幸せなことだった。わたしがいつも安心してはじめてのお客さんに話しかけられたのは、まちがいなく彼らがいてくれたおかげだった。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

今回の向坂さんはたぶん、「親密さ」への一般的な誤解を念頭に置いている。
親密さと距離の近さは同じではない。
遠くはない、でも決して近過ぎない距離にあり続けることだと、と僕は(も)思う。

時と場を共有し、ともにある楽しさを享受しあいたい。
でも関係を閉じたり強制したりすることは避けたい。
しばしば矛盾し衝突するけど、どちらの願いも切実だ。どちらかではなく、どちらも。
「常連とはあんまり話さない」という「ひねくれた」接客態度は、矛盾しがちな願いをどちらも手放さないという「攻め」、その名もなき工夫の謂いだと読んだ。

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