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「ききカフェ」の失敗

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

だれかの話を聞くのが好きだ。より正確にいうと、だれかに話される話を聞くのが好きだ。

同じじゃないかと言われそうだがすこし違う。「話を聞くのが好きだ」というとなんだか聞き上手的な、コミュニケーションがうまそうな、そんでもって友達なんかもいっぱいいそうな感じがするが、わたしはその点はてんでダメなので誤解しないでもらいたい。基本的に会話全般のことはそこまで得意でもない、むしろ苦手なほうだ。雑談の話題に困ったあげく、うっかり小学生のとき死んだペットの話をしてしまったりするほう。

そんなわたしでも、人の口から話される話そのもののことなら好きになれる。会話をするというよりも、本を読んだりコンサートを聴いたりするように話を聞くのが好きなのだ。

といってもべつに話し上手でなくていいし、内容もなんてことない、昨日スーパーで大根と豚肉と買って煮込んで食べましたとか、ちいさいとき東京タワーにのぼりましたとか、そんなので十分にいい。他愛ないのが好きというわけでもなく、重要な話でもそれはそれでいい。話が、その人のからだのなかでできた結晶のようにここまで運ばれてきたことを思うと、たまらない。内容にかかわらず、即興で選ばれた言葉が一直線の音になっていくのは本当にきれいだと思うし、その話が話されるに至ったのだ、ということの必然性にも胸が高鳴る。わたしはいないほうがいいぐらいだ。できることなら透明になって、ずっとだれかの話を聞いていたい。

だから、喫茶店に立とうというときにも、できれば来てくれた人の話を(わたしが)聞けるようにしたかった。それで最初にとりあえず作った企画が、「ききカフェ」だった。

「ききカフェ」では、来たお客さんになんでもいいのでなにか聞かせてもらう。どんな話でも、歌やラップや詩の朗読でもいい。わたしが話を聞くのが好きで楽しいという動機に加えて、「どんな話でも話そうと思ったらだれでも話してよい場所」というのが世の中にあったらなんとなくよさそうだ、という考えだった。おもしろい話なら誰に話してもいいし、悩みを打ちあける場所も意外にあるけれど、その他もろもろのカテゴリー不明な話をできる場所があったらどうなるのか。

先に結果から言ってしまうと、「ききカフェ」は数回やったきりやめた。お客さんはたくさん来てくれたのだが、企画の設定の段階で見落としていたことがたくさんあった。

まず、「なんでもいいので何か聞かせてください」といわれると、多くの人が困った顔をすること。この初歩的なことすらもわたしには意外だった。だれにでもなにかしら話せる話があると思っていたせいだ。

いや、それはまちがいではない。だれでも身体のなかには話される前の話を持っている、そう思っているのはいまでも変わらない。しかし、それは「なんでもいいので何か聞かせてください」と言われたときには出てこないようだった。話が話されはじめるためには、「だれでもなんでも話していい」以外のもっと複雑な条件が要るらしい。「だれでも来やすいようにできるだけシンプルにしよう」と思って設定したにもかかわらず、実際には来づらかった人もいただろう。

それでも、「じゃあ……」といって話し始めてくれるお客さんももちろんいて、そうするとわたしは楽しく聞き始めるけれど、話のほうがすぐに閉じてしまう。これも環境の設定がいけなかった。その場には当然ほかのお客さんが大勢居るわけで、いくらわたしが聞く姿勢をとろうとしても、話し手からはその人たちのことが気にかかる。話に直接邪魔が入るわけでなくても、ただ、そこに他の人が居るというだけのことが、話がつづいていくことを阻んだ。

こちらも想定していないことだった。それまでわたしがひとの話を聞くときはふたりでいることが多かったので、はじめての経験でもあった。

中には他のお客さんの存在をまったく気にせずに長いあいだ話しつづけられる人もいたけれど、そうなると今度はわたしの方が不安になってくる。いま他の話をしたくて待っているけれども時間に限りのあるお客さんはいないか、この時間を居心地が悪いと感じさせてはいないか。特に人によっては自慢ととれるような楽しい話だったりすると、わたし自身としては手放しで祝福をしたいのに、ああ、自分に引き比べてしんどくなっている人はいないだろうか、と勝手に心配になってきて、そうなるともう聞き手としての集中はしていられない。

話している人と聞いているわたしとがいるからといって、同じ場に他の人が存在すれば、それだけで一対一の関係を再現することはできなくなるのだ。その場にいる人同士は、いくら黙っていても、どうしてもおたがいに影響をうけあってしまう。

どうも、「話」そのものを扱う、ということは、たくさんの人があつまる場所ではむずかしいのだった。このことに気づいて「ききカフェ」をやめたところから、その後会話で使われる言葉のおもしろさのほうに焦点をあてた「場の詩プロジェクト」をつくっていくようになる。

「ききカフェ」をやらなくなってからしばらく、なにかべつの企画のとき、ふと会話の合間に空白が生まれた。複数人でしゃべるときにはめずらしくもない、だれの責任でもないちいさな沈黙。

「あの、ぜんぜん関係ない話してもいいですか?」

そこにそう切り出したのは若い女性で、わたしは「もちろん」と答える。そこから話し出されたのは、おもしろい話でも身の上話でもなく、「上京して住み始めた部屋にはじめてゴキブリが出たが見失ってしまい、それからというもの一回も見かけていないので、もう気のせいだったことにしようと思っている」という話だった。なぜそこでその話が出てきたのか全くわからないが、なにかそれを彼女に話させる要因があったのだろう。場にいる人たちも、なんとなくその話に耳をかたむけていた。話はそう長くならずに閉じたけれども、不自然な感じはしなかった。

「なんでもいいので何か聞かせてください」と言わなくなってからのほうが、そういう偶然がたびたび起きた。わたしはけっきょく、その偶然に支えられて、話を聞かせてもらう機会にはほとんど不自由せずに済んだわけだ。そう思うと「ききカフェ」は、つくづく過剰な、つたない企画だった。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

ただ話をしたい・聞きたいだけなのに。
寂しがりな人間は、手立てを欠いてはいつまでもひとりぼっち。
なんともどかしい。でももどかしいからこそ、話や会話はありふれた奇跡で、美しいのだと思った。
 
言葉という手立てと向き合う詩人、向坂さんによる思考と実践の試行錯誤。
それもまた時にもどかしく、そしてだからこそ祝福したいと私は思う。
「ききカフェ」は「過剰」で「つたない」企画だったと言うけれど、逆にこれほど言葉の「言葉らしさ」が身にしみる企画もないのではないだろうか。

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