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ただ、うなずいて聞いてくれればいい(のか?)

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

マスクをしている人にもだいぶ見慣れてきた。今やもう、マスクをしていない人と向かいあうのに身体的な抵抗感が生まれるという話も聞く。マスクの価格は一度大幅に高騰したのち、元の安さまでは戻りきらないところで安定してしまった。わたしが「うなずく人カフェ」という企画をやったのは昨年の夏で、まだ五十枚入り数百円でマスクが買えたころのことだった。

「うなずく人」というのは、文字通り、話を聞いて、ただうなずく人のことだ。しょぼい喫茶店にはおしゃべりをしにくる人が多い。中でも、ふっと自分のことを語りだす人がいると、わたしはついつい気を引かれてしまう。話す内容は、相談事だったり打ち明け話だったり最近あった印象的なことの話だったり、「必ずしも今話さなくてもいいけれども、かといっていつでも誰にでも話すわけでもないこと」というような距離感の話が多く、それがまたいい。その話が、知らない人も同席しているこの空間でいま、はじめられた、という事実に、まず打たれてしまう。ある話が話しはじめられるというのはそれだけで得がたい偶然性の産物に思え、ただ聞くにもついじっと息をひそめたくなるのだ。

そうしているうち、だんだん、そういう話にはとくにこちらのコメントは必要ないような気がしてくる。できることならこちらからはなにも言わず、話がひとりでに進行しているのをただ聞いていたい。一冊の本を読むように押し黙って、誰かの語るその人自身の話をずーっと聞いていられたら、それはどんなにすてきなことだろう。

ということで、その日の営業を「うなずく人カフェ」と名づけた。わたしはかねてからの希望通り「うなずく人」に徹する。うなずくこと、多少表情を変えることはできるが、なにも口を挟まない。またお客さんでも、希望する人がいれば「うなずく人」のほうへ回ってよい。これはわたしとしては、「だれもが『うなずく人』をやってみたいにちがいない」というサービス精神で設定した。

そして、「うなずく人」はわかりやすいようにマスクをすることにした。そのころはまだ今ほどマスクをした姿が日常的でなく、そのままではどことなく口枷をされているような、話すことを禁じられているような気配もただよう。なので、「しゃべってはいけない」ではなく「しゃべらなくていい」なのだ、という許可の意味をこめて、「うなずく人」のマスクには大きく丸を描いた。

この日、わたしはとてもわくわくしていた。誰かが何かを話しはじめるということの神秘にすこし触れられるのではないか、という気がしていたからだ。

話がはじまるとき、ふしぎとそれが誰の意思でもないように思えることがある。話す人は肩の力が抜けていて、まるでうっかり話し出してしまったようにみえるし、かといって聞いている人が無理に聞き出したわけでもない。そんなふうに話すという行為の主体がぼやけた場所に出てくる言葉が好きだ。以前どこかで、動かないロボットに向けて話をする人とときどき相槌をうつロボットに向けて話す人とでは、後者の方が長く話しつづけられる……という実験を見た覚えがある。「話を聞く」というとついつい受け答えやアドバイスに気をとられがちだが、話が出てくるのに本当に必要なのは聞き手のコメントではなく、うなずくことだけなのではないか。その仮説を、「うなずく人」で検証したかった。もしかすると、その裏には、わたし自身がこれまで受け取ってきた不快なアドバイスやリアクションへの反感もあったかもしれない。また、話を聞く側としても都合よく消費されたと感じることもあり、聞く人には言葉なんていらないのだよ、とでもいうような、どこか反抗的な気持ちも湧いていた。

やってきたお客さんははじめマスクをしたわたしを見て戸惑っていたものの、身振り手振りと説明用のボードで企画趣旨をどうにか説明すると、わりとみんな納得してくれた。企画を考えたときには内心、「しゃべらなくていいから接客が楽かも」などと甘く考えていたがまったく見当外れで、しゃべらずに接客するのはものすごく大変だった。話を聞くだけならまだしも、メニューの説明や会計となるととたんにバタバタしてしまう。ふだんなら、

「チーズケーキありますか?」

「確認しますね! (冷蔵庫をあける)すみません、品切れでした……」

で済むところを、

「チーズケーキありますか?」

「(チーズケーキあるかな? の顔)(”冷蔵庫見てみるから”、”ちょっと待ってね”のジェスチャー)(冷蔵庫をあける)(首を横に振る)(申し訳なさそうな顔)(”すみません”のジェスチャー)」

としないといけない。なんなら日ごろの接客よりも感情を酷使している気がする。奔走するわたしを見て、お客さんたちはやたら和やかにウケていた。

「かわいい〜」

かわいい……??

場が予想しない方向に進んでいることに脱力しながら、わたしの脳裏には着ぐるみのアルバイトをしていたころの記憶がよぎっていた。言葉が使えない状態の人が動きだけで意思を表現していると、動物やアニメーションを見ているような気分になるのかもしれない。なかには「おしゃべりが苦手なので、『うなずく人』をやりにきました」と言ってくれるお客さんもいて、それはうれしいことだった。そして、その人が他の人の話におだやかに聞き入っているようすを見て、わたしはめちゃくちゃうらやましく思ったのだった。わたしは基本的に企画を立てるとき、自分が店員という役割を担っていることを忘れているのである。

さて、本題の話を聞くことに関してだ。なんと、こちらもわたしの見当外れだった。趣旨を聞いておもしろがってなにか話し出してくれる人は何人かいたけれど、みんなそそくさと話を終えてしまう。話はいちおう結末を迎えられるけれど、話の主体は語り手からぶれることなくコントローラブルなまま終わり、それがなんとなくつまらないのだ。聞いていた仮説とちがう! わたしも他の「うなずく人」も、ちゃんとうなずいて聞いているのに……。話している方としても違和感が残るらしく、自分ではじめた話を自分のタイミングで終わらせているのに、話し終えるときにはみんな首をかしげた。

また、ちょっと怖くなる瞬間もあった。聞いているとたまに話の内容がネガティブな方へ行く人がいる。それ自体はまったく悪いことではないと日ごろは思っているし、ネガティブな話の方が面白いと思うことさえあるのだが、「うなずく人」をしているときには感触がちがった。聞いている自分が、話に対してあまりに無抵抗でしかいられないのが怖い。

「うなずく人」は当然受け身で、それゆえに弱い。普段もとくに反論したり拒絶したりすることはないにもかかわらず、それができないと思うと、とたんに自分が無防備な気がした。できるだけフラットに話を聞きたいと思っていた普段のわたしでも、実は心のなかで、話を聞きたくないと思ったらいつでも自分の立場に戻って拒絶をする構えをとっていたらしい。

これは大きな発見で、極端な例えかもしれないが、DVやハラスメントを受けている人の立場を追体験したようにも思われた。わたしは好き好んで「うなずく人」をやっていたからまだよかったが、「うなずくことしか許されない」という状況はどんなにつらいことだろう。そう思うと、「かわいい〜」といわれたことにも不気味な納得が湧いてくる。弱いものはかわいく、そして、容易に利用される。話を聞く側が適当に消費されるときのようすが戯画化されたようで、いやな後味が残った。

それぞれの話が長持ちしなかったためか、閉店間際まで店に残っていたのはごくわずかな常連と、疲労困憊になったわたしだけだった。「なんか疲れてるね」と言われ、かなり伝達が混線したときにだけ使っていた筆談用のホワイトボードに〈あんまり人も来なかったですしね〉と書いて見せる。

「そりゃあ、みんなくじらさんの話を聞きたくて来るからでしょ」

自分としては普段そんなに話していないつもりだったので、これは意外だった。

〈そうですかね〜?〉

「そりゃそうだよ」

〈みんなわたしにうなずいてほしいだけかと思ってました〉

こう書いてみて、自分でギョッとした。このひねくれた一文。言葉を使うことから解放されるようなすがすがしい気持ちではじめたこととは対照的ないじけかただ。

きっと、ようは、わたしは自分が話すことが怖かったのだ。お客さんが奇跡のようになにか話し出してくれることにおののき、感動しながらも、そのあとに自分がなにか言うことは必要ないと思いたかった。だいたい相手がわたしでなくても話される話だと思っていたし、そこにわたしがいてもいなくてもいいでしょう、と、冷めた態度をとっていたかった。

しかしそうはいかなかった。「うなずく人カフェ」に話しに来てくれたお客さんはみんないつもほど話し切らずに帰って行ってしまい、話が主体を失ってひとりでにまわりはじめるような瞬間はおとずれなかった。聞き手としてできるだけいなくなりたいと願いながらも、わたしはいちおう、わたしとして役割を果たしていたらしい。そして、そのためにはどうしても言葉が必要だったのだ。聞き手が都合よく消費されず、それでいて暴力的な主体にもならずに、自分として話を受け止めるためには、いつでも言葉を話せることが必要だった。

それは、すこしきまりが悪いながら、わたしにとってはやっぱりうれしい結論だった。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

向坂さんは、話がはじまり広がっていくことの尊さを本当に強く信じている。だからこそ、自分もその言葉を紡ぐ主体の一人だと腑に落ちるのに迂回が必要だったのではないか。

向坂さんが感じる尊さは、色んな人が集まって何かをすることがうまくいっている時の感覚に似ている気がする。
家族や友人、仕事、サークル、地域、などなど。
奇跡のような状態は、確かにそれを構成する一人ひとりのおかげで、そして同時に、特定の誰かのおかげでもない。同様に、言葉ないし話は、一方では絶対に話すその人のもので、でも同じくらい絶対にその人だけのものではありえない。
どっちつかずであることをいつも思い出していたい、と思った。

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