僕が大学に入学したのは2000年
26歳の時
都内の夜学、国文科
授業はいつも夕方6時からはじまり、終わるのは9時20分
帰宅するのは11時を越えていた。
昼間は大学の近所にある出版社で働き
仕事のない日にはカメラを持って鎌倉に出かけては、古都の風情を写真に撮ることをたのしんでいた。
鎌倉を歩いていると、所々で古典とゆかりある地にたどり着く
月影ヶ谷を歩くと阿仏尼邸跡
極楽寺坂の切り通しを歩けば、そこは『とはずがたり』の一場面…
など、挙げればたくさんの旧跡・ゆかりの地が出てくる。
以来「古典と鎌倉」に興味を持ち、在学中(じつは5年間通ったのだけれども)に国文科の研究室に頻繁に通って、関連作品の資料をたくさん集めた。
というわけで、アパートメント2回目も「古典と鎌倉」を取り上げていきます。
鎌倉大仏のある長谷から由比ヶ浜に注ぐ川、この川を「稲瀬川」と呼んでいるのですが、今から1300年、奈良時代にこの川は「美奈能瀬河(みなのせがわ)」と呼ばれていました。その美奈能瀬河を詠んだ歌が『万葉集』に採録されているのです。
まかなしみ さ寝に我は行く
鎌倉の 美奈能瀬河に 潮満つなむか (巻14-3366)
万葉集巻14に採録される歌は、東国で読まれたものばかりで、これを総称して東歌(あずまうた)と呼んでいます。中学や高校の教科書にも「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき」という歌を習った方も多いのではないでしょうか。
さて3366の歌、解釈を拾うと
かわいいあの子の元へ添い寝をしにいくよ
今、鎌倉の美奈能瀬河には潮が満ちて水位が上昇しているだろうか
となります。
この時代は妻問婚の形態でしたから、男性が女性の元へ通うのが一般でした。彼女の家に行くには美奈能瀬河を渡らなければならないが、美奈能瀬河には潮が満ちてしまっただろうか、と歌っているのです。
東歌というのは東国で詠まれた歌で、当時の都は奈良でしたから、東国は言ってみれば僻地でした。そんな田舎の、どこか牧歌的な雰囲気の中で、こうした歌を集団の中でみんなで詠みあっていたのではないかと言われています。ここでは、恋の障壁として美奈能瀬河がふたりの恋を遮っているわけです。
恋に障壁が付きまとうことは、現代を生きる私たちにもよくあることですが、つくづく古典作品を読んでいて感じることは、昔の人も今の人も、思ったり感じたりすることはあまり変わらないのではないのかな…と思ったりします。