年内最後のコラムだ、なんてことだ。
2016年に私に起きた最も大切なことのひとつが、朝弘佳央理さんにこの夏、ダンスの衣装を作れたことだった。
6月頃から佳央理さんとメールのやりとりをして、踊りのこと、踊るときに大事にしていること、服を作るときに考えていることなどを、文通のようにゆっくりと交換した。
何公演かあるという即興の踊りの衣装は、トルソーに布を当てて立体で形をいじりながら決め、そのあとに生地を選んだ。
図面を引くのではなく立体から形を考えるとき、私の脳は手紙のような長い文章を考えるときと同じ部分が働いているような気がするな、とそのとき思った。
生地には以前とっておいた、麻を脱色して淡く紅茶染めしたものを使った。
しわが寄ってもきっと綺麗なはずだ、と。
8月末に佳央理さんは東京へ着いて、お会いした数日後に最初の即興の公演が見られた。
踊りを見て、音楽を聴く中で、目と耳から入ってくる何かが少しずつ微細になるようだった。
幾度となくざわりと鳥肌が立ったこと。
全く関係ない短歌のことを思い出したこと。
佳央理さんの首に汗が光るのを見たとき、衣装が体に、踊りにちゃんと沿ってなびいている、と安心のようなものを覚えたこと。
揺れて広がったり、ほつれたりからんだりする佳央理さんの髪が、どんな衣装よりも美しいと思ったこと。
それらの余韻に浸りながら、公演のあとにいろんな方からかけて頂いた衣装の感想も含めて、ただただ幸せだなと思う帰り道だった。
もうひとつ、「夜弓」という題の踊りの衣装は、生地を選んでから形を考えた。
炎の明かりを使うということと、送って頂いた映像の印象から、火が滲むような衣装を作ろうと思った。
「滲む」というのは、私が火を見るときに感じる佇まいだった。
燃えるでも光るでもなく、揺れながら滲んでいるのが火だ。
夜弓の踊りは、数日前に見た即興には無かった鋭さに圧倒された。
静かな水面に浮かぶ草のようにゆっくりと動く佳央理さんの、張り詰めた手のひらがふっとこちらを向いたとき、何かと目が合ってしまったような気がしてぞくりとした。
火を静かに吹き消した後の動きは、記憶との長い遊びの反芻を思わせた。
佳央理さんの踊りを見ていると、感情の根元に潜るようなことを、人間が忘れがちな生きることの手ざわりを見出すようなことを、自分ももっと突き詰められるんじゃないかと思う。
誰かの真似でない、自分のやり方で。
この夏に佳央理さんの衣装を作って踊りを見る中で触れたいろんなものを、上手く言葉でまとめることができない。
けれど、自分の中のそれらにこの先、多分何度でも出会うことができる。
多くを捨てて、沢山潜った年でした。
そして、前よりずっと多くの出会いがありました。
どうかよいお年を。
また年明けに、アパートメントで。