今まで二回にわたって昔の映画の思い出話をだらだらと書いたが、今回はその最後。
ただ見るのではなく、よく見るということについて。
私は初めて見る映画はできるかぎり映画館で見るようにしている。(と言っても、時間的制約あるいは経済的な理由で、実はなかなか叶わないが)
映画館で映画を見たい理由は、私にとっては、本質的には小さい頃からの「慣れ」なのかもしれないが、それは置いておいて、少しその理由を考えてみると、それはおそらく、集中して見ることができるということだと思う。
映画を集中して見るということ。
家で見ると、電話がかかってくれば取ってしまうかもしれないし、お腹がすいたら何か食べるだろうし、トイレに行きたくなったらトイレに行く。映画館では、暗い中、周りに他人がいる状況なので、ある種の緊張感と、他人に迷惑をかけないようにしようという責任感も生まれる。その為、否応無しに映画に集中する。
また、映画館に行くという予定をわざわざたてて、実際行動を起こして見に行くわけだから、記憶にも残りやすい。2時間の映画のために、その日の移動も考えると、3時間から4時間の時間を作らなければならない。その為、映画をしっかり集中して見ることができる。感動の度合いも桁違いである。
ただ一つ問題がある、その映画が面白くなかった時だ。これは本当に辛い。集中して見ている分、いい映画はものすごく良く、逆に悪い映画はものすごく悪くなる。前回も書いたが、『ゴッドファーザーパート3』を勇んで見に行った時の落胆と悲憤、私は決して忘れない。
映画を集中して見るということは、ただ見るのではなく、よく見るということに繋がる。
さて、現在、映画は3D上映や4DX上映、IMAX上映など、さまざまな技術によって観客を楽しませる、一つのアトラクションになっている。それらは映画館でしか体験できないことなので、皆が映画館に行く機会が増えるという意味ではとてもいいことだと思っている。さすがにこのような体験は自宅では無理だろう。
ただ、そういったアトラクション的な効果が重要視され、映画自体の質が落ちてしまわないか、少し心配である。
ちょっと話が脱線するが、映画は白黒でも無声映画でもしっかり成立する。それは当たり前のことだが、昔の映画は白黒で見づらいから見たくない、と言い放った知人の言葉に、内心ぎょっとしたことがある。そもそも、映画は光と影のみで語られるべきで、これは極論だが、台詞はもちろん、音楽もなくてもいい。カメラアングル、カット、ズーム、アップ。それらをしっかり駆使し、しっかり編集することで、物語を観客に理解させ、そして見る者を感動させるものである。それ以外の装飾がメインになってしまっては元も子もない。
以前、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を公開時に映画館で見た。
冒頭、何の変哲も無い砂漠地帯の岩山のカット。カメラは動かない。少しずつ、キーンという不気味な音が遠くから響いてきて、その音は段々大きくなっていく。依然として画面は何も変わらない。音楽とは言えない、効果音のような、奇妙な音である。その音は最終的には恐ろしく大きくなって、画面全体を包み込む。あまりに大きく、そして画面は以前として何の変哲もない岩山、我々観客はどこに集中していいのかわからない。その岩山が大爆発をするんじゃないかと思うほど、その不気味な音は大きくなる。そしてその音はクライマックスに達すると、突如フェードアウトして、ようやくそのカットは終了する。たったこれだけのシーンで、時間にするとわずか数秒なのだが、家でDVDで見た時に、そのシーンがあまりに陳腐で迫力に欠け、その音の効果も全くなく、残念というより、驚いたくらいだった。
この映画はアクション映画ではないので、映画館の大きい画面でいいサウンドで、という向きではないけれど、それでも、冒頭のシーンという、映画において最も重要なところで、このような期待と不安を掻き立てる効果を演出しているのだ。この緊張感と不安感が、この映画の底流に潜むテーマで、それは最終的に、ラストシーンで頂点に達し、大爆発する。(ちなみにラストシーンで、私の近くに座っていた女性が、思わず「きゃ!」と声をあげた)
おそらく、映画館で見るというその行為が、我々観客に集中力を研ぎすまさせ、作っている側が意図したもの以上の何かを映画から得ることができたのだろう。
ドンパチしたり車や飛行機がびゅんびゅんしなくても、映画を映画館で見る価値はある。
私は映画館で映画を見るのが好きだが、人によっては自宅で一人で見る方が集中して落ち着いて見ることができるかもしれない。パソコンやスマホで、という人もいるだろう。形式は人それぞれだが、ともかく、ただ見るのではなく、よく見なければならない、と思う。
数年前から、ネット配信で映画やドラマを好きな時に好きなだけ見ることができるようになり、ネット環境さえあれば、いつでも、そしてどこででも映画を見ることができるようになった。
このような方法によって、非常に簡単に映画を見ることができるようになると、そのことが、単なる“人生のひまつぶし”の一つになってしまわないだろうか、そして、映画が暇つぶしのスマホゲームのようなものになってしまうとすると、製作者側も、そして我々見る側も、ある意味、真剣に取り組まなくなり、その結果、双方の質が落ちてしまわないだろうか、少し心配である。
大量消費社会、巨大資本主義社会にあっては、欲望と快楽の進む方向に、技術と産業も進化する。大多数が求めるものが優先され、それが正義になる。「いつでもどこでも簡単に」という標語の下、今後ますますその方向性は先鋭化するだろう。
遠回りと思っていたが、実は近道だったり、あるいはその逆もある。「いつでもどこでも簡単に」と思っていたが、実は結果的にはその逆になってしまうということだってあるのだ。
あえて回り道をするのは理解されない行動と思われるかもしれない。しかし、何の疑問もなく、ただ便利であるというそれだけの理由で、無批判に選択し行動することはさけなければならない。映画を映画館で見ようが家のテレビで見ようがスマホで見ようが、それは人それぞれだが、先ほどからなんども書いているが、プラトンがソクラテスの口を借りて語った言葉を少し置き換えれば、ただ見るのではなく、よく見なければならない。
結局、映画に限らず、およそ世界のすべての出来事は、「人生のひまつぶし」の為に存在しているのかもしれない。映画やドラマはまさにその典型で、どんなに感動作だったり話題作であっても、この現代の社会にあっては、次々作られ、次々消費される単なる商品の一つにすぎないのかもしれない。しかし、明らかにそれを期待し狙ってしまうのは、逆説的な言い方だが、黙示録を待望している狂信者と同じである。たとえそうだとしても、それをあえて肯定していく強い意志が我々には必要である、と思う。すべての事物が「人生のひまつぶし」の為に存在しているとして、むしろそうであるからこそ、そこから得たものを自らの血と肉に変えていかなければならない。我々人間は、ただ生きるのではなく、よく生きなければならないからだ。
たかが映画なのだが、飛躍に次ぐ飛躍を繰り返し、良くも悪くも、人生論やら哲学やらに変化してしまう、この映画という悪魔のような恐ろしい代物。
たかが映画、しかし、されど映画なのだ。