前回書いた、考えるへんな人、たいらいくし。彼にインスパイアーされ、トライアルもしてみて、家なしの生活実験を本格的にはじめることを決意した。元々は、東京でやろうと思っていたが、ご縁もあって、京都へ。
たとえ言葉は通じたとしても、関東と関西は何やら文化やコミュニケーションがちょっと違うんでないかい、と感じていたし、おそらく京都に住むなんて一生ないだろうからこの機会に、と国内留学のために京都にしたのだった。
ここでの出会いが、今やっているライティングだとか、関わっている「移住」や「まちづくり」の領域だとかのきっかけで、大きな転機を迎えることになった(と思っている)。
やや前置きが長くなったが、京都に移ってから知り合ったのが、田村篤史さんであり、今回紹介したい人だ。
田村篤史さんは、ロンブー田村淳と読み方は同じだが、雰囲気的には全然違う、自他共に認める草食系男子である。草食の中でも、しいて動物までを言うなら、ヤギっぽいかも。
現在は、ツナグムという会社をやっており、「つなぐ+うむ」を通じて、その人らしい暮らしの選択肢をつくるような仕事に関わっている。その一つとして、「京都移住計画」のような移住促進事業があったりする。個人としても、キャリア支援系のNPOでの活動や、大学でのキャリアデザイン講師を務める。
人の生き方(暮らし方、働き方)に関心がある人だし、それに関連する知見も深い人だ、とぼくは思っている。そして、その関心の矢印は、他人よりも先に自分に向いていて、自分から他人へと伸びていくような関心のつくり方ができる人だから、ぼくは篤史さんが好きなのだ。どういうことかと言うと、「適切な自己中心性」を大事にしている人だということ。それは、京都移住計画がはじまったきっかけを辿ることでわかった。
ざっくり言うと、京都移住計画は、京都に移住を考える人、あるいは移住後の人に向けた「居(コミュニティ)」「職(仕事)」「住(住まい)」の応援プロジェクトのこと。
元々、京都出身の篤史さんが、東京で働いているとき、自身のUターンについて考えはじめた。ただ一人で情報を集めていても限界があるし、だったら同じように京都に移り住みたい人でみんなで情報を集めて、共有すればいいんじゃないか、なんなら先に戻った移住先輩に話を聞くのが早いんじゃないか、というアイデアから京都移住計画が生まれることに。
はじまりは超シンプル「自分が戻りたかったから」だが、今では行政と協同での移住コンシェルジュ事業をするまでになったり、京都以外の選択肢を考えるための「みんなの移住計画」という地域を超えての動きにまで発展している。
篤史さんは、自分ごとだったものを、他人も巻き込みながら、みんなごとにする(Private→Common→Publicへと変える)ことが得意な人で、だからと言って、それを超意図的にやっているかというとそうではなく、相手が持つストーリーに耳を傾けているからそうなっているだけだったりする(その自然さがすてきなわけで)。
カウンセリングの仕事もしているせいもあってか、やはり、篤史さんの性質は、「聴く人」であり、さらに、相手がどんな人であっても肯定できる「寛容さ」、その人の「こう思う」に対して「なんでそう思うの」と問いかける「探究心」なんだろうなあ。
過去にちょい遡ってみると、ぼくが篤史さんにはじめて京都で会ったのは、CoffeeMeetingを通じてだった。京都リサーチパークにあるTSUTAYAじゃないほうのドライブインできるスタバ(100m内に二店舗もある不思議スタバ)で、約束の時間よりもちょっと遅れて篤史さんはやってきた。
お互いのテーマに「働き方」みたいなものがあるなかで、「髭を毎日剃るかどうか」「スーツをきたいかどうか」は些細ではあるけど、「やりたくないこと」を含めての「やりたいこと」に目を向けるのは、自分の働き方を考えるためには大事なことかもねぇ、という話をしたのをうっすらと覚えている。
「地元におもしろい人が集まれば、その地域はきっとおもしろくなる。顔が見える関係性で、会いたい人がそこにいるかどうか移住にとっても大切だと思うんですよね」
篤史さんはそんなことを言っていた。ぼくは、地元(沖縄)に対していい印象を持っていなかったのだけど、Uターンで戻って、地元をおもしろがるための視点を教えてもらえたような気がした。自分のテーマである「くらし方・働き方」を考えるときに、「地域」というフィールドがあって、「移住」という手段や、もろもろの結果の「まちづくり」があるんだと、そこでハッとした。
当時の篤史さんは、京都移住計画はスタートさせていたものの、ツナグムもまだ会社にしていなかったし、「半分フリーランス、半分会社員」という不思議な仕事の仕方をしていて、そういうタイプの人間に会うのもはじめてだったので衝撃だった。そして、それよりも何よりも、会話のなかで感じとれる人柄の良さというか、柔らかさというか、「また会いたいな」と思える「いい人」だったわけで。
そんなひょんな出会いから、すぐにまた会えることになって、その回数がちょっとずつ増えていって、ぼくが京都を離れるときには、京都移住計画の広報として声をかけてくれたり、ときたまライティングの仕事を振ってくれたり、今ではぼくも「おきなわ移住計画」をやっているし、興味のなかった「地域」という扉を彼に開いてもらえた。
さて、ここまで書いてきて振り返ると、”へんな人”感がうすいかもしれない。笑 ただ2015年6月頃だったか、出会ってから2年が過ぎたあたりで、篤史さんが4泊5日くらいで沖縄にくるタイミングあった。そのときに、どんな場所を案内するかを考えたかったので、「どんなテーマで沖縄を周りたいですか?」と聞いたら、答えはこうだった。
「みじゃ(*ぼく)が紹介したい、超偏った沖縄を紹介してもらえるとうれしいな」
そんなこんなで、沖縄でも辺境である、ぼくの出身地・伊平屋島に連れて行くことに。そして、条件がもう一つあった。
「あんまり現地のスケジュール入れすぎず、作業の時間も入れながらにできるかな?」
…ということだったので、釣りをしたり、バーベキューをしたり、島の風景をみたりしながらも、そのスキマや移動の待ち時間などは、MacBookを開いて作業をしはじめ、ときにはSkypeをしたりで、仕事と旅行が半々くらいの旅になった。
(伊平屋島から伊是名島へと船で渡って、その港で人を待ちながら、カタカタと作業しはじめる篤史さん)
せっかく初の沖縄にくるのに、そういう場所をリクエストして、そういう過ごし方を好んでやるのは、変わってるなあ、と感じたのは正直あった。「地域」というフィールドにいるからこそ、いろんなことに関わっている人だが、あまり物事に関心があるタイプではないようだ。
だからこそ、「人」を頼りに地域との関係性を築いてきた人なんだろうなあ。それも含めて、彼の「受け止め力」みたいなものをあらためて感じたりもする。またちょうど「ワーケーション」という言葉を知った頃だったが、まさにこれを田村さんはやっていた気もする。
普通に考えたら、へん、なのだ。ただ、やっぱりへんな人ほど、あらためて話を聞いてみると、そこに論理性、同時に直感性を感じて、その人の大切にしているものが見えてきたりもする。
伊平屋島では、夜の浜辺で、ザザザーっとくる波をBGMに、オリオンビールを片手に、星をたまに見ながら、いろんなことを話した。あれは、いい記憶として残っている。わざわざ、あんな辺鄙なところに、そして、自分がそだった島を見てもらえて本当にうれしかった。
人の縁というのは、おもしろい。京都のスタバがきっかけとなって、あんな沖縄の人でも知らない人もいるくらいの伊平屋島に一緒に行けたときには、それをつくづく感じた。篤史さんとの場合は、縁がそだってきたような感覚だ。
それとは別に、これまで、縁をだれかにつないでもらうばかりだったから、今度は自分が人をどうつないでいくのか、を最近ではよく考える。「おごってもらってきたから、おごる」じゃないけど、ぼくも「つないできてもらったから、つなぐ」ということを大切にしていきたい。
「地域」や「つなぐ」を考えるための”種”を植えてもらったので、この種をしっかりときちんと水を遣って、ここで育ったものをまわりの人に共有できるように、そして、新たな種をぼくも植えられるようにしたい。
まとまりもない文章になったけど、とりあえずあれです、また篤史さんと二人でどっかに行けたら楽しいかもなあ、と新たな旅路を考えたりしていたりするわけで、でも、草食系の彼を、草食系のぼくが誘うのは大変なんもんで、こうやってこっそりと文字にしてPRしておくという戦法をとっていたりもするんですね。
『考えるへんな人』シリーズは、ぼくから彼らに向けた、へんな手紙のようなもの。
(伊平屋島、港近くのテトラポットで釣りしたとき。海を眺めながらのおしゃべりは自然と楽しくなるのなんでだろう)