隣の男性が、囲炉裏の火を前に、焼き加減を細かく調整しながら真剣にほっけを焼いている。
その様子を私とサザエさんはにこにこして眺めている。
いい具合に焼けてきたところで、ほっけをお皿にうつして、3人は互いのおちょこに日本酒を注ぎ合う。
そして、3人で杯を交わす。
「乾杯!」
ゲストハウスの部屋に戻ってきた時、既に先客がいて、見慣れたヘアスタイルの女性の後ろ姿だと思ったら、サザエさんだった。
「あれ、今晩もいらっしゃるんですか?」
「あら、そうだよ!あなたも?」
「はい!」
私はサザエさんとまた会えたことが嬉しくて、そして今晩も彼女がいるのだと思うと、安心した。
私は荷物を置くと、
「実は日本酒、買ってきたんです。よければ飲みませんか?」と聞く。
するとサザエさんは、スーパーの袋をガサガサと探ると、日本酒の小瓶を取り出した。
「私も、買ってきたんだ、日本酒。」
と言って、にかっと笑う。
え、そうなんですか?と私は驚いて聞くと、サザエさんは笑顔で頷く。
2人とも今晩はあの囲炉裏で日本酒が飲みたいと思っていた。
なんだか偶然同じことを考えていたことが面白くて、2人して笑った。
そして、じゃあ下へ行きましょうかと話し、二人で団らんスペースへ降りていった。
囲炉裏を囲んで、今日はどこへ行ったかとかそういう話をしていたら、男性が一人やってきて、輪の中に加わった。
その人はバイクが好きで、群馬県からバイクでここまでやってきたのだという。
話を聞いていると、このゲストハウスの常連ということで、慣れた手つきでほっけを焼き始めた。
「この囲炉裏で焼くほっけ、本当においしいんですよ。」
その人は嬉しそうにそう言った。
なんだか、ここがこの人の帰ってくる第二の家になっている、そんな気がした。
3人で日本酒を片手に飲みつつ語り合う夜は、大盛り上がりをした昨晩とうってかわって落ち着いた夜だった。
昨日はとにかく楽しくて、ゲストハウスにいることを忘れてしまうほどだった。
今目の前にある囲炉裏と涼しげな縁側、そして日本酒とほっけのそれら全部が揃って、
今夜を創り出している感じがした。
同じゲストハウスなのに、過ごし方によってこんなに表情が変わるなんて。
2回目の夜を過ごすことにして本当によかったと思う。
その夜、3人で何を話したかはっきりとは覚えていないのだけれど、恋愛の話をした気がする。
初めての人同士でも共通で盛り上がる話題だったから、きっとその話をしたのだと思う。
サザエさんは外国人と付き合った話をしていて、なんとなく彼女の懐の大きさとか、器が大きいところが、外国人と合いそうだなと思った。
後から振り返って、そう思ったことだけははっきり覚えていた。
その後、私たちは10時くらいに部屋に戻った。
日中鎌倉をよく歩いたし、昨晩も遅くまで盛り上がっていたから、早い時間に眠くなって、布団に入った。
隣の布団で横になったサザエさんが
「ねぇねぇ、『クルミッ子』って知ってる?」と聞いてきた。
「『クルミッ子』?初めて聞きました。」
「鎌倉名物のお菓子でね、カステラみたいな見た目をしてるんだけど、中にクルミとキャラメルが入っていて、すごくおいしい焼き菓子なんだ。
それで、実はここの近くにその工場直営店があるからさ、よければ明日朝一緒に行かない?」と言う。
クルミッ子って初めて聞いたけれど、なんだかそのかわいらしい名称と、サザエさんの話に興味をそそられて、
「行きたいです!」と返事をしていた。
最後の晩で少し寂しく思っていた気持ちが、明日の楽しみができてわくわくした気持ちに変わっていく。
布団に入って、サザエさんにおやすみなさいと言って、安心して眠りにつく。
翌朝9時頃、私たちはクルミッ子を求めて、ゲストハウスを出発することにした。
ゲストハウスを出る時、スタッフの方々が入り口のところまで一緒に出てきてくれて、見送ってくれた。
「また、いつでも帰ってきてくださいね。」
スタッフの女性がにこやかにそう言ってくれた。その言葉と笑顔に、ほっとして、そして鎌倉に帰る場所ができたのだと思う。
ゲストハウスを出発して、少し歩いた所で振り返る。
スタッフの方々が手を振ってくれていて、私たちも手を振り返す。
ゲストハウスの佇まいは、やっぱり田舎のおばあちゃんの家みたいで
せりだした縁側が、今日もどこからか寛ぎにやってくる人を待っている。
私はそのゲストハウスの佇まいと、ゲストハウスで出会った人たちとの思い出を忘れないようにと思い、
曲がり角を曲がって見えなくなるまで、ゲストハウスを振り返り振り返り見ながら歩いた。
大通りに出て少し歩いていくと、道路沿いに茶色い外壁のこじんまりとした建物があった。
入り口の上あたりに『鎌倉紅谷 クルミッ子』という文字の看板がかかっていて、その文字の隣にリスのモチーフがついている。
中に入ると、店内には小さなカウンターと棚があり、お菓子が並んでいた。
どれにしようかなと楽しそうに選んでいるサザエさんを見て、私もどうしようかなぁと思っていると、店員さんが爪楊枝に刺したクルミッ子のひとかけらを差し出してくれた。
私はそのひとかけらを食べて、驚く。
「おいしい!」
外はサクッとしていてクッキーのようで、中はクルミがたくさん詰まっていて、クルミの香ばしさがいいアクセントになっている。
そしてキャラメルの風味が絶妙にマッチしていて、初めて食べるお菓子だけれど、これは癖になると思った。
「ね、でしょ?」
とサザエさんは嬉しそうに言う。
このお菓子の存在に、今まで気付いていなかったことがもったいないくらいだった。
私はその場でクルミッ子10個入りを買った。
その土地に詳しい人から勧められた食べ物や場所って、自分でガイドブックで調べるよりも、いいものに巡り会えたりする。
その後、藤沢駅まで行って帰るというサザエさんとバス停で別れることになった。
「おかげで、すごく楽しかった、今回の旅。
ありがとう。またあそこに集まろうね。」
サザエさんはそう言い、私と握手をして、バスに乗り込んでいった。
お互いに見えなくなるまで、私たちは手を振りあった。
私たちが出会ったのは、お互いの人生の中のほんの一瞬だったけど、濃密で忘れられない大切な時間を一緒に過ごした。
私はこれから今回の鎌倉旅を思い出すたびに、きっとサザエさんのことも一緒に思い出すんだろう。
私はこの土地に別れを告げて、鎌倉駅に向かうバスに乗り、北鎌倉へ向かう。
私が今回最後に巡る場所として北鎌倉を選んだのは、緑が豊かで、お寺や山に囲まれた北鎌倉の存在に惹かれたからだ。
鎌倉駅前の小町通りや鶴岡八幡宮もいいけれど、今回の旅では普段行かない鎌倉も味わってみたい、そう思った。
北鎌倉駅で電車を降りると、古い駅舎で、改札を出るとすぐに豊かな緑に囲まれていた。
たくさんの人で賑わっている鎌倉駅前と雰囲気が随分違くて、一駅違うだけでこんなにも変わるものかと驚く。
私は緑に囲まれた道を歩いて、明月院へと向かった。
明月院は緑が豊かなお寺で、境内を歩いていくと茶屋があり、赤い布がかかった円台と赤い傘が差してあった。
木々の緑色と赤色の組み合わせは風情があって、見ているだけで心が洗われていく。
梅雨の季節にあじさいが咲く参道の前に行くと、すぐそばに竹林につながる道があることに気付き、私はその道を行くことにする。
まっすぐに高く伸びている竹に囲まれた場所にはベンチが置いてあり、私はそこに座る。
そして、竹が伸びる先の空を仰ぎ見る。
私は、空から射し込む陽の光が、竹の葉や竹林の中に降り注ぐこの空間かすきだ。
私はすぅっと息を吸い込んで、大きな伸びをする。
今回の旅では、色々な鎌倉を味わえた気がする。
初めましての人たちと宴会で盛り上がった夜
市場で見つけた不思議なパン屋さん
駅前のデパートで買ったりんごちゃんのパーカー
衣張山の山頂からの眺め
そして鎌倉ゆかりの文豪たちとの出会い
ゲストハウス2日目のの夜。
私は、鎌倉で出会ったことや出会った人、感じたことを、残しておきたいと思った。
私はどこか腰を落ち着けられる場所を探して、駅前の方へ戻り、通り沿いを歩く。
すると、前方に木でできた小さな看板があるのが目に入った。
『喫茶ミンカ OPEN』と書かれている。
この先にどうやら喫茶店があるらしい。私は通りを左折し、矢印の書いてある方へと小道を歩いていく。
小道は家と木々に囲まれていて、この先に喫茶店なんてなさそうに思えた。
そして小道の端まで来たけれど、喫茶店らしき建物は見当たらない。
はて、どうしたものかと思い、そばに覆い茂っている木々や草のあたりをぼんやり見ていると、木々の隙間の奥に古民家があることに気付いた。
その古民家の一階の入り口がガラスの引き戸で、その奥に机や椅子が並んでいるのが見える。
一見すると、そこにあることに気づかないような古民家で、でもその人知れずある感じが気に入って、私はそこへ入ることにする。
店内は、森の中のかわいい喫茶店という感じで、深い茶色の木でできた机や椅子があり、本棚には古そうな背表紙の本や雑誌が並んでいる。
私は一目見てこの喫茶店が気に入った。
どこの席に通されるのかなぁと思っていると、店員さんに窓際の勉強机のような席に通された。
そこの席は、一人用の小さな四角い長机で、落ち着いた席で一人でゆっくりしたいというお客さんにぴったりで、なんだか勉強がはかどりそうな席だった。
席の前には布がかかっているから、前の人からはこちらの様子は分からなくて、なんだか隠れ家的な喫茶店の中の、さらに人知れずあるような席だった。
私はホットのミルクコーヒーを注文し、運ばれてくるのを待つ。
窓の外に広がる草がうっそうと茂っている庭を見ながら、
今回の鎌倉旅を思い返す。
今回の旅は色々な出会いと、気付きがあったなぁ。
そういえば、今回の旅では、まだノートを開いていなかった。
私は鞄から無地の茶色いノートを取り出して、
新しいページを開く。
ペンをとって、出てくる言葉をそのまま文字にして書いていく。
私にとって、文章を書くことは、
自分の気持ちを、あてはまる文字という型に流し込んでいく作業に似ている。
鎌倉って、はっきりしないぼんやりした天気が似合う、緑と海に囲まれた、素朴な街。
鎌倉を例えるなら、なんだろう…
そうだ、群青色という言葉はどうだろう。
青とも紫ともはっきりしないぼんやりした色。
そうだ、タイトルは「群青色の街」にしよう。
なんとなくしっくりくる。
私はペンをとって、出てくる言葉をさらさらと書き始めた。
「群青色の街」
きっとひどく仕事に疲れていたんだと思う。
あの時のことを振り返ると、そう思う。…
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Annyです。ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。
「群青色の街」いかがだったでしょうか。
私が群青色の街で体験した断片を
みなさんと共有できて、私が出会った人たちへ思いを馳せてもらえたら、嬉しいです。
そして、私が書いた文章を通して、
みなさんの毎日をちょっとでもよくすることができたら、
私にとってそれ以上嬉しいことはありません。
これからも、みなさんの日々をちょっとよくするような言葉を紡いでいけたらいいなと思います。
またどこかでみなさんと、私の書いた文章を通してお会いできることを楽しみにしています。
それではまた、どこかでお会いしましょう。