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2F/当番ノート

ねこじゃらしとそら豆のはしがき

当番ノート 第33期

半分こえた。
と思ったのは、25歳のときだった。人生の中で、家族と一緒に暮らした年数を、離れてから暮らした年数が追い越した。

12歳のとき実家を出て、中学1年生から下宿生活を始めた。中高一貫校で、そのまま大学で東京に来て、今も都内で働いている。実家は広島市にあって、中学高校は岡山の東の方、兵庫寄りの山の中にあった。通おうと思っても、新幹線と在来線を乗り継いで片道2時間以上かかる。だから、家を出ることになった。

というか、家を出てみたかったから、この学校を選んだのだった。小学生のとき読んでいた小説で、寮生活もののシリーズがあって、その主人公に憧れて。普通に広島の中学に行くはずだったのに、「寮に入りたい」と言い出した私の気まぐれを、聞きいれてお金を工面し続けてくれた両親には感謝しかない。

そういうわけで、教室まで走って10分の距離にある「下宿」に入った。「寮」とはちょっと違う。大家のおばさんが取り仕切っている、普通の家だ。女子ばかり、10人くらいが暮らす家。女子寮もあったけど(しかも、道路をはさんで下宿のすぐ向かいに)、私が入学した当初は高校生しか入寮できないルールがあって、遠方からの中学女子は必ずこの下宿を斡旋された。

大家のおばさんは、私が入学したときすでに70代だったと思うけど、女手一つで(旦那さんは亡くしていたので)、食べ盛り動き盛りの子どもを10人も世話してくれていた。「若い子とおるとな、なんかパワー湧いてくんねん」と言うのが口癖で、詐欺かと思うくらいの肌つやをキープしていた。80代になった(もうすぐ90?)今も健在で、私は会うたびにもちもちのほっぺたに触らせてもらってあやかっている。

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常に「パワー」が溢れるおばさんのもとで、下宿生は自由に育った。おばさんが暮らす母屋とは別棟で、庭を挟んだ向こうに下宿生が暮らす家が2棟建っている。1棟ずつにお風呂とトイレと洗濯機とキッチンがあって、あとは全部居室だ。ほとんどが一人部屋。ひとつだけ二人部屋があった。

いわゆる寮生活にありがちな規律や罰則は無いにひとしく、

・朝ごはんと晩ごはんは母屋の食卓でとる。昼ごはんは、弁当を詰めて持っていく(中身はおばさんが用意してくれる)
・洗濯や掃除は自分で
・年に2回、クリスマス会と新入生歓迎会をする(そのときは下宿生が料理を作る)

くらいの、ルールというか仕組みだけが決まっていた。

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外出ももちろん自由。門限は特になし(むしろ、誰がいつどこにいるのか、おばさんもきちんとは把握していなかっただろう)。ごはんも、食べたくないときは食べなくて良いし、おばさんがロマンチストだったので男女交際も奨励されていた(下宿は女子専用だけど、学校は男女共学だった)。

学校は進学校で、厳しくて辛い校風だったけど、そのぶん下宿はとても緩やかで、仲が良くて、自由ゆえのいろいろな小事件や、人間模様に恵まれた6年間だった。

・・・

ということまでは、すらすらと書ける。高校を卒業して下宿を出てから、何度となく口にしてきた説明だからだ。

新しいコミュニティに入るときや、バイトの面接、就活の面接。下宿の話は鉄板で便利で、「自立心があるんですね〜」という印象を与えるには手軽だったし、それが採用の決め手になったこともあったらしい。だけど私としては、心身を鍛えられたとか、一人で頑張ってきたとか、そういう意識は全然なくて、普通に楽しかっただけだった。朝起きて一人であることに、もう家族と一緒に暮らす機会がないかもしれないことに、気づいて泣いた経験は人より豊かかもしれないが、それ以上に下宿生活は愉快なものだったから。

ただ、いまは、下宿のことを語ろうとすると寂しさが泡立つ。過ぎ去った日々が寂しいのではなくて、過ぎ去ったその、楽しかった感覚のひとつひとつを、読んでいたもの嗅いでいたもの触っていたはずのものを、思い出せなくなっているからだ。「なんとなく楽しかった下宿生活」。そういうひとくくりの定型句に、だんだんと収まっていっているような気がして。6年間もあったのに。

昨日そら豆を茹でた。
友達が家に持ってきてくれたので、茹でた。塩を入れたお湯の中で泳がせて、火を止めて、おたまですくった。そら豆は逃げた。鍋のへりに沿って、するんするんおたまから逃げた。私は執拗に丁寧に、一粒一粒すくってやった。全部すくったと思ったあとに鍋を見たら、茹で汁が紅色に染まっていた。豆の中のアントシアニンが、溶け出てるらしいよ。友達が教えてくれた。

そら豆は苦労して全部すくってやったのに、知らない間に何かは外に溶け出していて、もう救いようがなかったりする。下宿時代の(すなわち貴重な「青春時代の」)記憶も、いっぺんに救い出そうとしてもせいぜい一粒か二粒、しかもそれを構成していた成分の一部は勝手に溶けて、いま私の目の前を流れる時間の中にまぎれていくようで。だからアパートメントで2ヶ月の連載の場をもらえることになったとき、書きたいと思ったのは下宿のことだった。書きたいというか、書いておきたいと。

高校を卒業して8年。あのころやっていたこと、考えていたこと、これは忘れたくないなと思っていたことの断片はまだかろうじて、体内で浮かんでいる。

会社からの帰り道、ビールと一緒に月を仰ぐ。今日もいい天気だった。そういう時たまに、かつて下宿の庭でバニラアイスの隣に寝そべって、月に手を伸ばしていたことを思い出す。あるいは、ハンガーにかかったシャツ袖に、黒い影が見えた時。反射的にびくっとしてしまうのは、未だ抜けることのない癖だ。正体は絶対にムカデじゃなくて糸くずで、東京のマンションでムカデなど、ほとんどありえないことなのに。

そういうふうに、いま目の前にあることをねこじゃらしのように使って、寄ってきた記憶を少しずつ文字の形に手なずけていく。えらく抽象的ですが、そんな連載にしたいなーと思っています。

藻(mo)

藻(mo)

フィクションの好きな会社員。酒と小説と美術館、散歩、そのために旅行する。1991年早生まれ。

Reviewed by
中田 幸乃

一昨年の夏、知り合ったばかりの珈琲屋の男の子が、我が家に、台湾人の女の子を連れてやってきた。真夏に、ちゃぶ台とベッドが半分を占めているような狭い部屋で、そこそこの大きさに育った人間が三人が、一週間一緒に暮らした。二人は毎日、色んな島へ遊びに行っては、帰り道のスーパーで食材を買って帰ってきた。数日分はある食材を全部使って男の子は料理を作り、三人でほとんど全部食べた(残った分は朝ごはん)。わたしたちは全員、お互いのことをほとんど知らなくて、共有している思い出をひとつも持ち合わせていなかった。だから、夜ごはんを食べながら、その日の朝ごはんの話をして、その日、二人がどんな風に過ごしたかを話してもらった。次の日には、前日の話をして、そうやって増え続けた一週間分の思い出を、わたしたちは今でも引っ張り出してきては喜んで語り合う。

それでも、忘れないようにこんなにも何度も反芻して確かめあっているのに、確実に、記憶の輪郭は少しずつ曖昧になっている。朝と昼と夜、それぞれの出来事は溶けて一日の思い出に、一日一日が、一週間の思い出に。いつか、液体のように溶けたディティールは、ころんと小さい「なんとなく楽しかった」という言葉ひとつの塊になってしまうのかもしれない。

きっとそれだって、素敵なことだ。
素敵なことなんだけれど、やっぱり忘れたくないと思うのだ。

これから二か月、ゆきみさんが揺らすねこじゃらしに、わたしの記憶も喉を鳴らして寄ってくるといいなと思う。
ひょっこり。
ひとまず、今年はよくソラマメを茹でたなぁ、なんてことを思い出しています。

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