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2F/当番ノート

父と嘘

当番ノート 第34期

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お決まりの胃腸炎で私はだいぶまいっている。
ネガティブな言葉しか出てこないし、まだ今日吐いた大量のパスタが鼻から出てきそうで気持ち悪くてたまらず、何を食べてもだめなので薬をのんで断食している。接種するのはポカリスエット。胃が痛い時は背中もとても痛くてたまらないのでどうにか緩和しようと断食状態でヨガに行ってますますフラフラになってもう私はダメだとのたうち回って、やゔぁい。忘れていたが今日はアパートメントを書く日ではないかと我に返った。
今日は父についての短編集を何個か書いた。
父よっちゃんは自分のことは何も語らず、とても無口な人だった。というかほとんど家におらず、いたとしても新聞を読みながらストレッチをしているか、話していても9割型ほらを吹いているかで父についてはあまりよく知らない。そんなミステリーな父よっちゃんについてここで書ける知ってる話をいくつか断片的に書くので読んで欲しい。

■父と母
「カリフォリニアの夕日を一緒に見に行かないか?」
それが父が母へ送ったプロポーズの言葉だった。
父と母の新婚旅行は2ヶ月使ってアメリカを横断するものだった。それはそれは素晴らしくロマンチックで楽しくて、浮世離れしていて、あの時がお父さんを一番愛していた時ではないかと母は語る(今では「早くお父さん死なないかな」が母の口癖だが)。かっこいいスポーツカーをレンタルして、ホテルには泊まらず各土地の父の友人宅を渡り歩いてそれはまるで映画のようだったそうだ。
父は7年ほど鉄板焼き料理人としてアメリカで働いていた。ニューヨーク、カリフォルニアなど転々とし長くいたのはアトランタだった。ただ料理を提供するだけでなく、大きな鉄板を前にお客を楽しませるのが仕事で、肉を焼く際過度にファイヤーを吹き出させたり、ナイフやテコや胡椒の入れもんを空中で回転させたり、生の牛肉をそのまま皿に置いたりとジョークを連発し、彼自身も楽しく暮らしていたそうだ。そんなパフォーマンスに人気が出て、父はお給料より上回る高額なチップを毎月得られ、アトランタのローカル料理番組にも出演していたそうで、割と人気があったらしい。(しかし両親の言う事のほとんどは嘘ばかりでどれも信用できたものではないので、このすべての情報が嘘かもしれないが)その7年の放浪を経て結婚もせず神奈川の小さな街で洋食レストランを営んでいたそうで、そんな生活をしている中母と出会った。母は大阪でOLをやっていたので、父はレストランが休みの日になるとBMWのトランク一杯に薔薇の花を詰め込んで高速をぶっとばして母の住む大阪へ一生懸命足を運んでいたそうだ。母は若い頃とても美人だったそうで、いつも言いよってくる男性が耐えなかったと自慢しているが父もその1人だったそうだ。母は14つ歳の離れた父のことを最初は「ただのおっさん」だと思っていたようだが、父がわざわざ遠い関東から毎週花束を手にやってくることや、話のおもしろさや、彼の野心や、ロマンチストな部分に惹かれていったそうで、ついにプロポーズされた訳だが、もうその頃にはすっかり母も父のことが好きになっていたし、イーグルスをよく聞いていた母は、かの名曲「ホテルカリフォルニア」はもちろん愛聴しており、カリフォルニアという憧れの土地は運命に近く、プロポーズにイエスと答えた。

■ロマンチストな父
父よっちゃんは恐ろしいくらいロマンチストな男であった。持っているレコードはマイルスデイビスやジョンコルトレーン、ブラームス、ラフマニノフとジャズやクラッシックのレコードばかりだったし、本棚はゲーテや中原中也の詩集があったりとなかなかのかっこつけしいな感じだった(母が売っぱらってしまったので本棚の中身はあまり覚えていないが)。幼少の頃、娘ながらに「どんだけ〜」と思った記憶がある。私が4、5歳の頃、弟達は年子なので2歳か3歳。移住先の八ヶ岳の山の中を家族5人で散歩していた時の遠い記憶。霧がかっていて、とても寒く、幼い私にはとても過酷な散歩であった。もう何時間も霧雨漂う山の中を散歩し続け、私はうんざりしていて、「パパー、寒いから帰りたい」と何度も言ったが父よっちゃんは「歩いていたら温かくなるさ!」と何度もしつこく言うばかりで幼い私の意見を全く聞いてくれず、幼い弟達はきっとこの状況にうんざりしているだろうな?と様子をみてみると小っこいくせにこの霧雨ウォーキングをひたすらに楽しんでいるようで、こいつらも当てになららそうだと悟った幼い私は父に「寒くてもう嫌だ。歩きたくない!今すぐ帰りたい」と雄叫びを上げて泣いて見せた。内心ここまでしたら父も諦めて謝罪の言葉をのべ、今すぐにでも家に帰ってくれるだろうと思ったのだが、父は「そうか。ごめんな〜寒いよな〜」と言ってそこらへんにあった石と小枝を集めて火をつけて薪をしだしこう言った「これで温かくなるぞ〜。人は火を見ると穏やかな気持ちになるんだ」と。私は幼いながらに「どんだけ〜」と思ったのだった。

■ディグる父
父が庭で大きな大きな穴っぼこを掘り続けている日があった。夜に帰宅して、それからまた無言で夕食を食べ小さな声で「ごちそうさま」を言い席を立ち庭を出て穴を掘る。日に日に大きくなる穴。日曜日の真っ昼間、父が穴を掘っているのを見に行った。穴は2つあり、3つ目の穴を掘りはじめようという所だった。無心に穴を掘っている父に「この穴なに?」と訊いた。「これはお前達を埋めるための穴だよ」とまたいつものあっけらかんとした調子で父が言うものだから「え?本当に?」と私はまた訊き、父が「本当さ」と答える。「なんで?私達のこと好きじゃないの?」と私が訊くと父がこう答える「確かにお前達3人は可愛いけど、まったく言う事きかないし、悪さばっかりするだろう?それにお金もかかるしさ。もう埋めてしまったほうが楽だと思って、お母さんと話し合ってお前達を埋めることにしたよ。ごめんな」とまた飄々とした調子で言った。私は「あぁ、この人本気だ」と感じて部屋に閉じこもった。「私は実の父親に埋められて死ぬんだ」と思った。日に日に大きくなる穴。父の穴を掘るのをどうにか邪魔しようと思い、「お父さんこの間金曜ロードショーで録画したグーニーズ一緒に見ようよ!」と誘ってみたり、「お父さん将棋でもしようよ!」と無理に誘ってみたが、父は興味のなさそうに「穴を掘らなきゃいけないからな」とグーニーズも将棋もそそくさと庭に出て穴を掘りに行く。眠れない夜。いつ頃私達は埋められるのだろうか?3人同時に?それとも1人づつ?せめて弟達と同じ穴へ埋めてくれたら寂しくないのに。学校へいくのが憂鬱だった。もう友達のサヤカともヨウコとも会えなくなるかもしれない。そろそろ3つ目の穴もちょうどの大きさに達しただろう。そう思って帰宅すると父の掘っていた大きな穴から3本の大きな白樺が生えていた。

■ゆかりさん
よっちゃんには「ゆかりさん」という女がいた。
「ちょっとゆかりさんに会いに行ってくる」と言って父は突然いなくなったりした。母は「わかった。ゆかりさんによろしくね!」と言っていつも笑顔で父を見送った。いつもあっけらかんと「ゆかりさん」と母以外の女性の名前を言うし、母もそれを容認しているようで子供ながらに私は戸惑った。ゆかりさんに会いに行くと言って出て行ったら1時間で戻ってくる時もあれば1週間帰らない日もあったりした。実はただ車でドライブしてきただけだったり、神奈川の祖母の家に行っていたり、会社の慰安旅行でハワイに行っていたりしていたみたいだった。「ゆかりさん」というのは1人になりたい時に使うただのジョークみたいなものだったらしい。今でも「ゆかりさん」という女性は本当に実在したのかもしれないと見た事もない「ゆかりさん」のことを懐かしく思う。ちなみに「ゆかりさん」とはシソふりかけの「ゆかり」を見て思いついたらしい。うちの家族はこのシソふりかけの「ゆかり」のことを「ゆかりさん」と呼んでいる。

■父と車
よっちゃんは酒も煙草もやらない。やるのは車だけだ。よっちゃんは車をとても愛している。
18年間同じBMWに乗っていた。そのBMWはとてもとてもかっこ良く、いつも乗ると車の中に革の匂いなのかなんなのか新車のような厭な匂いがして私はいつもBMに乗ると車酔いをした。だけどもだけど、そのBMはとてもかっこ良く、よっちゃんの誇りであった。速度計や回転速度計、オーディオのライトは赤で統一されてその赤色がとても好きだった。父は家族よりもBMにより愛情を注いでいた。BMとよくお喋りしていた。鳥の羽がわしゃわしゃついている箒でBMを愛でながら愛車とおしゃべりしていた。18年乗り続けたBMだったがもう乗り続けるには無理があったので父のハトコの大学生の息子に譲ることになった。私はその大学生の男があまり好きではなかった。慶応大学に通っていてそりゃ頭はいいのだろうけど服のセンスはいけ好かないし、なんだかナメ腐ったような喋り方をするので、こんな男によっちゃんの愛するBMを譲っていいものかと私は疑ってしょうがなかったが父は決心したのだ。父はいつもより長い長いBMとの対話をした後愛車とお別れした。父は泣いていた。よっちゃんの涙を初めて見た。その一年後、大学生の男はBMを事故って廃車にしたそうだ。

■父と絵画
よっちゃんは何故だか絵画が異様に好きで、私の実家には絵画が部屋中廊下中に飾ってあるが、そのほとんどがただの安物のポスターである。その安物のポスターにしっかりと額装して愛情をもって所有している。よっちゃんのおきにいりはスペインの画家のミロ。いろんな画家の画集もたくさん持っていて(これも母が売り飛ばしてしまったので今はもうほどんどないが)私と弟たちは女の人の裸がたくさん描いてある絵画の画集をスケベ本だと思い込んでおり、父は他の同級生の父達とは違い、たくさん女の人の裸が載っている本を所有しているスケベな人であると思っていた。家に飾ってあるのは絵画だけでなく映画のポスターも稀に飾ってあるのだが父の思い出のアトランタで撮影された「風と共に去りぬ」のポスターが飾ってあった。よく知られた映画であるが幼い私達にはそんな映画のことなど何もわからなかった。火につつまれた中に1組の男女がいて、男は女を熱い眼差しで力強く抱いており、抱かれた女は生きているのか死んでいるのか力なくしなだれ、その洋服は火で焼けたのかはだけており、もう少しでお胸が見えそうイヤン!てな感じで、想像力豊かな幼い私はこのポスターをポルノポスターだと思っておった。
ある日曜日、幼稚園のお友達のトオル君が我が家に遊びに来た。そして我が家の廊下にある「風と共に去りぬ」のポスターを見て大興奮。「わぁ〜エッチな絵だぁ〜」と一言。(まずい!父がスケベなことがばれてしまう!!)と私は内心焦り、トオル君に「違うよ〜。これはゲイジュツだよ〜」と言ってみたが次の週トオルくんは「エリコちゃんの家にはエッチな絵があってね〜。すごいエッチな絵でね〜」という噂話を園中に話してまわり、その話を聞いた園児達がこぞってそれぞれの母や父に報告するものだから、ある日に今で言うママ友らに「おたくの家は幼児に不適切な性的な写真が飾ってあるのか?」と問いただされたようで、その日から何年とこの「風と共に去りぬ」ポスターは屋根裏部屋にそっと仕舞われて誰の目にも触れずにいた。ちなみに私は未だに風と共に去りぬという映画を見ていない。

namazu eriko

namazu eriko

1985年、八ヶ岳出身。
神奈川県在住。
絵/テキスト/デザイン
たまに酒場のカウンター

8月は荒木町アートスナック番狂せのグループ展「八月、番狂せ、カレーとTシャツの庭」に参加しています。

Reviewed by
木澤 洋一

namazu erikoさんの連載第7回目。今回は父についてのいくつかの物語で、箇条書きのような淡々とした形式が味わい深い回でした。穴を掘る話は特にロマンチックだった。

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