海外からのスパムメールかと思ったら、名前が読めない。だいたいスパムってアメリカのインテリみたいな名前で来るもんだけど、と思って開けてみたら、ポーランド人からのメールだった。
「お宅の国の文字読めないから、アルファベットで住所教えてくれる?注文したCD届けたいんだけど」
ああ、あれ?確かにこないだダウンロードしたアルバムは「ハードコピーも郵送」って書いてあったっけ。でもこれまで改めてアルファベットの住所なんて聞かれたことなかったのになぁ。そう思いつつ、変な文字使っててすいませんねぇと謝って返事をした。でもあんたの名前も読めないぞ、とは言わなかった。
ポーランドの公用語がポーランド語であることを、僕はポーランドに着くまで知らなかった。
ウィーンからクラクフへ。ただでさえ8時間とか9時間とか電車に乗りっぱなしの行程なのに、乗り換えの電車が一向に来ない。周りの各国からの旅行者も互いに英語で情報交換しているけれど、誰も確かなことは分からない。
30分ぐらい待っていて、さすがにのどが乾いてきた。飲み物を買おうと駅の売店でユーロを出して、店員のおばさんに英語で「列車は何で遅れてるんですか?」と聞いてみたが、首を振るばかり。同行者がドイツ語でなんとか話しかけると、いかにもうんざりしたという口ぶりで耳慣れない言葉を話し始めた。
「いいかい、この国じゃあユーロは使えないんだよ。この10ユーロは特別に両替してやるよ。ポーランドの通貨はこのズロチだ。よく覚えときな。それから何語でしゃべってんのか知らないけど、ポーランドの公用語はポーランド語だよ。他の言葉はしゃべんないからとっとと行きな。」
何て喋っていたのかはもちろん分からなかったけど、こんな感じだったに違いない。他の旅行者の皆も、ポーランド語は喋れなかったのだろう。さらに30分くらい経って電車がやってくると、みんな飛び跳ねて喜んでいた。列車の中でジュースを分けてくれたり、妙な一体感すらあった。
その後クラクフで現地のガイドから教えてもらったことには、ポーランドの人々は自国の言葉に誇りを持っていて、英語やドイツ語で積極的に話すことはしないのだそうだ。きっとあのおばさんは、いつも英語やドイツ語で話しかけられていて、その度にああやってあしらっているのだろう。誇り、とは言っても、乗り換えの駅なんだからもっと外国人フレンドリーでも良かろうに……その旅の目的地だった場所の名前も「アウシュビッツ」ではなく、「オシフィエンチム」と、その土地の名前で呼んで欲しいと言っていた。
初めての海外旅行だった。戦争を知らない世代として、その負の歴史の傷跡を見ておきたいとクラクフ集合のこのツアーに参加した。クラクフは、カラフルなレンガ作りの建物が残るかわいらしい街だ。でも到着したその日は日が暮れていて殆んど街を見る時間がなかった。
ガイドの方は「負の歴史の記憶だけでなく、今の活気のあるポーランドの姿を見て欲しい」と言っていたけれど、曇天の下見た強制収容所は、その歴史を伝える使命を語る現地の人々の言葉は、ポーランドという国への覆し難いイメージを脳裏に焼き付けた。悲劇と、それを乗り越える激しい意思の力。それ以降知ったポーランドの音楽—ディストピア的な世界観のプログレや、体制による抑圧と対峙したジャズや、熱さと冷たさを内包したポストパンク—といった中にもそれらは確かに内包されていれて、聴いている僕の頭の中で反射され、増幅されていった。
最近、ポーランドでかっこいい音楽が近年たくさん生まれてきていることを発見して、このときに見たポーランドの土地のことを思い出そうとしたけれど、半日も乗っていた電車の中で自分が何を思っていたか、よくよく考えても思い出せない。初めての海外で、周囲と言葉は通じない、列車は謎の停止を繰り返し一向に進まない、そしてトランジットのモスクワで預けた荷物は行方不明になっている……そんな経験したことのない不安に晒されていたはずなのに。まるで収容所の強烈な記憶に掻き消されてしまったようだ。
そのとき、まさに初めて降り立った海外がモスクワ空港だったけれど、預けた荷物が一足先の飛行機でウィーンに行ってしまった。ところが、遅れてやってきたウィーンの空港で荷物の所在を聞いても、そんな荷物はないと言われる。スーツケース一個消えても、意外と旅は何とかなったけれど、夜のクラクフは寒くて、到着するなり駅前のH&Mに服を買いにいった。でも翌日、荷物はちゃんと、もし見つかったら届けて欲しいと住所のメモを渡したクラクフの宿までやってきた。土産用に空けていたスペースをH&M占領して、再会の感動とともに、身軽に楽しんだウィーンのツケが回ってきた。
果たして、住所をメールで答えたLAMのCDは、未だに我が家に届いていない。
仕方ないからPCで聴いているけれど、なぜだろう。あの列車から見えたどこの国ともつかないヨーロッパの景色が流れていく映像を、いつも朧に思い起こさせる。