誰もいない作業場の跡地のような場所で、鉄骨に小屋が吊るされていた。
それは時々ゆっくりと回りながら、風に揺れていた。
二十二歳の冬の日、はじめてそれを見つける。
新潟に帰省して、犬の散歩に出かけた夕方のことだった。
いつものように通ってきた道の近くには、水田に囲われた作業場の跡地のような場所があった。
昔から知っていたのに一度も立ち入ったことのないその場所が、その日だけはなぜか気になる。
気がつくとそのまま、中へと足を踏み入れていた。
秘密基地みたいな場所だったからだろうか、不思議とこわいとは感じなかった。
それどころかむしろあたたかくて、懐かしい場所へと帰ってきたような気がした。
まるで誰かの愛着が、手つかずのままそこに眠っているみたいだった。
それから約一年後、今度はひとりでその場所を訪れる。
最初に来た時よりも、雑草がより深く生い茂っていたことから
もうこの場所には本当に誰も立ち入っていないことが分かった。
吊るされた家はセイダカアワダチソウに包まれながら、
誰かを待っているみたいにひっそりと佇んでいた。
僕は手に持っていたカメラを、吊るされた家のほうに向ける。
雑草をかきわけながら、ゆっくりと家のほうへと歩いていく。
短い映像を撮影すると、インスタグラムにそれを投稿する。
映像を見たひとりの友人が、この場所に関心を寄せる。
以前から映画制作について学んでいた彼は、同い年の僕よりもずっと物知りで、賢い人間だった。
つまらない話にはつまらなそうな態度をはっきりと示し、美味しいものを信じられないくらい美味しそうに食べ、
よく手巻きのタバコを吸った。
吊るされた家のことを詳しく話すと、彼はこの場所へ行ってみたいと言ってくれた。
話が進むうちに、一緒に何か映像を撮ってみようということになった。
映像を特別学んでいたわけではなかった自分にとって、彼の存在はとても頼もしかった。
何度か話し合いを重ねたあと、翌月に静岡から新潟へとふたりで向かった。
吊るされた家と向き合う時間をとおして、僕らはまるで血の繋がっていない兄弟のようになる。
そしてそこから、ふたつの作品が生まれる。
はじめに自分が卒業制作としてつくった作品は、まるでうまくいかなかった。
なぜこの家は吊るされたのか。一体誰がつくったのか。
そのような理由を探ることに、途中から自分はひとりで躍起になってしまった。
しかしそれは、はじめにこの場所に惹かれた思いと根本的に何かがずれていた。
かつてこの場所にいた人物は、数年前にすでに亡くなっていた。
彼は長年建築業を営んでいて、やがて生活に行き詰まるとこの地へと引越してきて
どこかから運びこんだコンテナを作業場の近くに立てると、死ぬまでそこで暮らした。
彼には弟がいたらしい。どんな兄弟だったのかはわからないけれど、
兄より数年早く病に倒れて、先に亡くなっていた。
そして小屋がつくられた理由は、吊るされた理由は、最後までよくわからなかった。
卒業制作の発表が終わった翌日、僕たちはふたたび新潟へと向かう。
もうひとつの作品をつくるために。
吊るされた家の周辺を調べていたとき、一本の古いカセットテープが見つかった。
日付は今から何十年も前のもので、ラベルには「10年前のやっちゃんの声」と書かれていた。
僕はこっそりとその場から持ち去ると、家に帰ってそれを聴いてみた。
はたしてそれは問題なく再生される。驚くほどくっきりとした音で。
三十代くらいの男性のやさしい声が流れる。
彼はテープの内容について説明する。
これはやっちゃんのお父さんに宛てたものだということ。
あの頃はお世話になりましたということ。
当時お家にお邪魔した時の、やっちゃんの声の記録を見つけたので
お送りしますということ。
そしてカチリというダビングの再生音。
やっちゃんと思われる、あどけない男の子の声がする。
まだ3歳か4歳ぐらいだろうか。
それをやさしく見守るように、先ほどのテープの送り主の声。
まるで親子のようにあたたかなふたりの会話が、その穏やかな熱が
テープをとおしてゆっくりと伝わってくる。
後ろからは、家のおばあちゃんらしき人の声もきこえる。
どこにでもありふれているような、だれかの光景。
テープの内容は、吊るされた家をつくった人物とはおよそ関係のないものだった。
それにもかかわらず、自分がはじめに作業場の跡地を訪れた時に感じた
あのあたたかさや懐かしさと、まったく同じ類の何かがあった。
そしてふと奇妙なことを考える。
もし今この吊るされた家をやっちゃんが訪れたら、
彼は一体何を思うのだろう、と。
テープを聴き終えたあと、僕はひとつの物語を書きはじめる。
時間をかけて仕上げたそれは、もうひとつの作品の原作となった。
友人がそれをもとに脚本を書き、監督となって映像を撮影した。
それは短編映画となり、幾つかの小さな上映会で発表されることになった。
吊るされた家のある場所で、三つの物語が交錯する。
亡くなった父の形見を探しに来た青年と、父のかつての友人。
生きていた頃の父と、その弟。
そしてこの場所とはまったく無縁な、ふたりの子ども。
それぞれが別々の時間のなかで、この場所とふれていく。
青年は最後まで父の形見を見つけることができない。
一番最後、彼がひとりで再びこの場所を訪れる場面でこの映画は終わっている。
ひょっとしたら、この場所にとって訪れることが最も望まれた誰かとは、
何も知らないままここを秘密基地にしてしまった、ふたりの子どもなのかもしれない。
この場所に再び息を吹きかけるかのように、彼らはちいさな世界を揺りおこしていく。
風が駆けまわるようにひとつひとつが撫でられ、光をはらんでゆく。
僕も彼らのように、この場所と出会っていたかったのかもしれない、と思う。
ふたつめの作品を撮り終えてから数ヶ月後、吊るされた家は跡形もなく姿を消した。
誰かが撤去したのかもしれないし、不気味だからと取り壊されたのかもしれない。
近所のひとに尋ねても、誰も何もわからなかった。
その不在を知った時、こころに穴が開いたような、たまらないさびしさを感じた。
自分で風に飛ばされていったのかもしれないね。
一緒に映像を撮った友人に話すと、そんな答えが返ってきた。
子どもじみた発想だと誰かは笑うかもしれない。
だけど僕はそれを、とてもいいなあと思った。
今あの家は、どこで揺れているんだろう。
それから先は、どこへ向かっていくだろう。
僕たちが最後に帰る場所は、一体どこにあるのだろう。
卒業式を終えて、東京に引っ越してから迎えたある春の朝のこと。
僕はこの日、入社式に行くことになっていた。
前日に読み終えた「モモ」の余韻が、まだ頭を離れなかった。
会社へと向かう電車のなか、イヤホンを耳にはめる。
そして音楽プレイヤーに入れておいた、やっちゃんのテープを聴く。
同時に自分自身の、古い記憶が呼び覚まされる。
まだ6、7歳ぐらいの頃、おばあちゃんの実家で
双子の兄と一緒に、ラジカセの録音機能で笑いながら遊んだ記憶。
あの頃は何かに守られているような、包まれているような感覚があった。
テープを聴きながら、吊るされた家のことを思う。
それからやっちゃんのことを、テープの送り主のことを、
僕が決して出会うことのない、すべての見えない人々の物語のことを思う。
それはとてもしあわせな時間だった。
誰にも語られることなく捨てられた思いが、見知らぬ誰かによってふたたび拾われるとき、
そこに汲み取られるべきものは何もなくてもいいのかもしれない、と思う。
もう二度と揺り戻されることのない記憶こそが、ひょっとすると
この世でもっとも美しく、かけがえのないものかもしれないのだから。