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2F/当番ノート

大人との出会い 再会

当番ノート 第37期

20170318_114854
(家近くのにて。もうすぐ桜が一面に広がるのです。)

前回の続きとして、本稿では再会について書いていこうと思う。

再会を通して、私は出会いよりも多くのことを学んだ。
もちろん、意識して再会していることが大きな因果として存在しているはずだが、なんというか、
様々なことがよりリアリティを持って自分に届いている感覚だ。

それは年齢が関係しているのか、自分が変わったからなのか、それとも・・・

——————

2018年になり、寒い日が続いた。
ぬくぬくとした部屋の中で、私は鳥居さんへ再会を望む連絡の内容に、頭を悩ましていた。
それでも、ふと、悩んでいること自体がずれている気がした結果、「またお会いできませんか」と簡潔に連絡した。

すぐに返事を頂くことができた。
しかも「是非に」という内容だった。
もちろん嬉しいことではあったが、鳥居さんだからなのか、自然と断られる気はしていなかった。

2月上旬、再会は鳥居さんの自宅に招かれる形で実現した。

当日、私は私の想い人と二人で鳥居さん宅へ向かった。

向かう途中、ささやかな菓子折りと、お酒とつまみを購入し、古き良き街を歩いた。
何についてお聞きしようか、と改めて考えながらぽつぽつと歩くのは、少し曇った空に映された建物の灰色も、
それはそれで素敵な色である、と感じられるような優雅な時間だった。
少し迷ってしまったけれど。

迎えてくれた鳥居さんは、変わらず素敵なおじ様で、柔らかい物腰で、それだけで緊張がほぐれた。
自宅玄関前で、コートの裏側が表になるように畳んでいたけれど、そういうことが望まれている場でもないのかなと感じた。
前日に調べた「目上の自宅に訪れるときの礼儀6選」が、嬉しい方向で無駄になったことに、少しむず痒くなった。
こういった雰囲気こそ、鳥居さんが持っている’何か’だと感じた。

これは一体何なのだろう?
答えはきっと再会の中にあるはずだ。話を進めよう。

リビングに案内され、定式の挨拶を済ませると、早速、冷やされたビールを振る舞ってくれた。
ふと、リビングで音楽を流してくれていることに気付く。その細やか心遣いに、私は心が温まった。

話は、鳥居さんというホストの下、様々な方向に転がった。

私たちの仕事のこと、鳥居さんの仕事のこと、ご家族のこと、同郷である大学のこと・・・・
途中、料理まで振る舞ってもらい(これがまたビールと合うものだった)、話は終始盛り上がった。

私はいくつかの質問を用意していったわけだが、そのほとんどの回答は自然な会話の中で頂いていた。
今思えば、質問として成り立たないなこれは、という感じる質問さえあった。

それでも、一つだけ、どうしても聞きたいと願っていた質問をする。
夜も更けてきて、お酒も進み、まったりとした時間が流れた頃だった。

「鳥居さん、幸せを感じ続けるためには、人それぞれの’豊かさ’という土壌が必要だと思うんです。
 鳥居さんにとって’豊かさ’ってなんですか?」

・・・

この質問は、20代も後半に入り、自分が努力する先を見定めたい、と願う曝け出した私の質問だった。

私は、実のところ、「こうなんじゃないか?」というレベルまで、この質問の私の中で答えは出ていた。

でも、’豊かさ’と一言に言っても、それは多岐に渡り過ぎるのだ。

まず、将来に渡って関わる人たち、好きな趣味、自分だけの時間の過ごし方、心が打ち震えるポイントなどが挙げられるだろう。
それだけじゃない、場所だって大事だ。それは家庭や、仕事、旅、もしかしたら、部屋の隅かもしれない。
別の要素を挙げると、生活水準を決める収入、ライフワークバランス(この言葉自体を少しだけ疑っている私も居る)だって存在する。
いやもっと細かくして、仕事の内容、プライベートの内容、・・・云々。
ああもう、って感じだ。

まだまだある。自分の時間やお金や、そう、諸々ひっくるめた自分自身を、どう使うのか、そう言った話を軸に考えることでもある。
とはいえ、自分の根本の哲学が変わることで、上記に書いた、豊かさと直結しそうなモノ・コト・考え方は、容易に変容する。

ああ、ホントにもう、って感じだ。

私はそのような情報を掻き回されるばかりの渦の中で、少なくとも一つの「こうだよ」という定点が欲しかったのだ。

・・・

鳥居さんは想定していた即座の回答とは違い、いくつかの話をしてくれた。

それは、鳥居さん個人の知り合いたちとの自宅で行われるささやかな、しかしとても内容の濃そうなパーティーについてだった。
自分が質問しておいて、すっかりそのパーティーの話に耳が傾いてしまったため、しばらくは質問について忘れていた。
ちなみに、次回のパーティーはお呼び頂けるという事であった。

次に、年齢も考慮した上で、自分が今取り込みたいことについて話してくれた。
詳細はここでは避けたいが、伝えられる範囲でざっくり言うと、自宅庭の手入れを行いたい、という事であった。
その庭を見ながら構想を聞いているだけで、私も、私の想い人も、心が温かくなっていた。

ひとしきり話し終わると、直接的ではなかったが、
鳥居さんは「こういうことが幸せと感じます」と言った。

そこまで来て、私は気付く。
この何十分間の間、鳥居さんの形で、私の質問に答え続けてくれていたのだと。

ある程度、アルコールが回った頭で考えて、有り難い、とだけ強く想った。

————

会自体はその後収束へ向かい、最後に作成した画集まで頂き、お開きとなった。

以下、再会を通して感じたことについて2つ、書いていく。

まず、私は他にも色んな再会をしてきたが、その度私は裁判官になってしまっていたのではないか、ということを振り返って感じた。

鳥居さんは私の中で色濃く存在しており、また還暦を過ぎた年齢であることから、私は勝手に不変であると捉えていた。
(実際、鳥居さんは変わらずそこに居て下さった。)

しかし、特に同年代と再会すると、仕事を何しているだとか、結婚している・彼女がいるだとか、何を趣味にしているだとか、
そういった表面上の事実だけを捕まえて、何か’判断’を下してしまっていなかったか、という疑問が浮かび上がるのだ。

鳥居さんの話を聞いている時、またこうして振り返って考える時、いつでも「じゃぁ、おい、自分はどうなんだ」と自分に突きつけているのに、
普段そうならないのは、きっと私が相手を凄いとか、大したことないとか、疑ったりとか、何かしら判断し、そこで思考停止してしまっているからなのだ。

これは、約7年前とは大きな違いだと思う。当時は誰と出会っても私は打ちひしがれていたはずだ。

もちろん、自分がやっていることに自信を持つことは多いに結構、むしろ人を判断することで良くなる物事も多いだろう。
それでも、私はまだまだだと思っているのにも関わらず、人との関わりで判断を下してしまうようになった点については、
省みてマインドを変える必要がある、そう感じた。

鳥居さんと話すと、鳥居さんを知っていくと同時に、自分のことも知れる。
だから、嬉しいこともあれば、めちゃくちゃキツいこともある。
判断を下してしまうと、相手のことを知れないことはおろか、自分のことも知れない。
これは、何にも繋がらないのだ。

人との出会い、と称してこの連載を続けているが、その実、私と出会い続けることを書いているのではないか、そう思うほどの学びである。

自分の幸せってどこにあるのよ、という問いについて、悩んでことに対する一つの解が訪れてくれた。
ここで言う幸せとは、現在進行形ではなく、未来進行形、将来の自分が幸せであるか、ではその時の幸せってなんだろう、という意味に近い。

例えば、一般的には持て囃されるだろう徳も高い目標があって、そこに向かって日々幸福を感じずに頑張っている人がいる。
目標に辿り着けたら、それからは幸福である、ということを信じて止まず、走り続ける。
10年経って、目標を手にしたとき、その人は何を思うのだろうか。
よっしゃ!もう完璧!となるかもしれない、いや、こっからだったのか、と決意新たにするかもしれない、あれ、こんなんだったっけ?と
疑問ばかり生まれるかもしれない、思ってたのと違うけど、頑張った甲斐あってこんな幸せになりました!となるかもしれない。
一口に言っても、色んな事情が絡まり合うから、分からないことばかりだ。
最悪の場合、自分頑張った10年を否定してしまう瞬間さえ訪れてしまうかも知れないのだ。

ここで一つの、何故だか昔から頭に残っている私的名言が思い浮かぶ。
何の作品だったか、誰にもらった言葉だったか。

「感情を殺すなんて老後で十分だ。」

ここで言う「感情」という言葉の定義で解釈が変わってくるけれど、私は「心の正直なところ」だと思っている。
私は、友人から無駄と切り捨てられてしまうような上記のようなシナリオをあれこれと作り上げてしまう質だから、将来の幸せ、
なんてのを想像すると、正直吐き気がしてくる。
壮大すぎるのに、無視できないし、難しいのに、すぐそこにある気がして、私を捉えて離さないのだ。

でもきっと、考えすぎてしまうだけでは、違うんだな、と思う。
私はきっと、今の私自身の心の正直なところから逃げることなく、正直に誠実に実直でいることこそが、想像してなかった幸せへの道なのではないかと思うのだ。
そのことは、鳥居さんの経験を通して思わせてくれたことだと、感謝している。

————

最後に。
散々、目上の方の自宅に訪れる機会に、礼儀を調べていったが、無駄だったと感じた私についてこう書いた。


こういった雰囲気こそ、鳥居さんが持っている’何か’だと感じた。

これは一体何なのだろう?

このことについての回答は、帰り道で想い人が教えてくれた。

「鳥居さんは、あなたのこと’友達’だと言ってくれてたよ。」

・・・衝撃だ。きっと私は40歳近く離れた若造を、友達を表現できないと思う。
鳥居さんの懐の大きさと深さは、私は手に入れたいと願うものであると、再認識させられた。

今回の再会を通して、私は過去の自分との対比からの反省、更には未来に向けての今の在り方について、学ぶことができた。
学んだだけでは、私の教養にはならない(「教養」と言う言葉についても多くの話をした。いつかどこかで。)。
これを活かして、私はどうなるのか、日々楽しんでいきたいと思う。

出会い、それから再会というのは、とても色んなことを感じ、考え、学びとなる機会だと確信した。

お節介かもしれない。
でも、もし、連絡取ってないな、と思える人がいたら、勢いで連絡してみてはどうだろうか。
そこから、自分にとっても、相手にとっても、何かが、変わるかもしれないのだ。

小峰 隆寛

小峰 隆寛

IT企業に勤めるサラリーマン。
冬と古着とお酒と物語が好き。
毎日を即興性のある日々にすることと、「できないことをできるようになる」ことを大事にして生きている。

Reviewed by
辺川 銀

豊かさとはなんだろう。何をして過ごすことだろうか。誰とどこで生きることだろうか。

出会いから生まれた問があった。問の答えを知りたいがために僕は旅に出た。旅の先では多くの宝物を得たけど、果たしてこの中に、僕の探す正解は本当にあるだろうか?

再会を経て、その答えに少しだけ触れたような気がした。

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