(※本稿は公の場であるいうことを考慮した記述を含みます)
さて、この当番ノートも残すところ2稿となった。
読み返してみて、ここ’アパートメント’の’一つの部屋’としてどうだろう、と考えてみると、
特徴的な机とか本棚とかはあるのだけど、床とか壁とか、そもそも広さとかが伝わってこないなと感じた。
いや、もしかしたら感じてくれる人もいるのかもしれないけれど。
どうしてだろうと考えていると、良い面ばかりに目を向けて書いているからだ、と思い至った。
確かに、私には大切にしたいと思える出会い・再会がたくさんある。
これ自体はとても良いことだ。有り難いとも思う。
しかしそれは同時に、たくさんの’別れ’を含んでいることを示してもいた。
今回は、一つの別れについて書いていきたい。
またこれは、この当番ノートへの、最後の寄稿の導入部分にあたる。
書いている現在、とてもじゃないが明るい話になりそうにはない。
今までが全て明るかったのかと問われると、疑問ではあるのだけれど。
つい最近、私は私の想い人に、フラれてしまった。
そして、もう戻ることはないと確信した。
決定的な別れを味わってしまったのだ。
———
別れというのは、出会いと同じくらい様々な色や形があると思う。
しかし、別れは、出会いとは比較できないほどに、意識していないとその意味を感じられないものだと思う。
例えば、社会人になってしばらく経つと、学生自体によく一緒に遊んでいた人間と、気付けば何年も会っていない、
というか会っていないことも意識に降りてきていなかった、なんてことは容易に発生する。
それに気付いたときには、’別れた’なんて感覚は存在せず、過去の思い出の1ピースになってしまう。
別れというのは、それがドラマチックでなければ、時間経過を必要とする概念なのではないだろうか。
ドラマやアニメには、別れの描写が分かりやすく書かれていると思う。
いやむしろ、明示的に表現しなければ、’別れ’を表現するのが難しい、というか、遠回しになってしまうのだろう。
映画アルマゲドンや、タイタニックなんかは明示的に別れを感じさせてくれる。
時間経過の別れで言えば、そうだな、劇場アニメ秒速5センチメートルはうまく当てはまると思う。
そしてそれらは並べて同様に、寂しく、哀しいものだ。
私の場合は、大それたドラマチックなことは起きなかった。
にも関わらず別れを強く意識できたのは、今まで出会いと別れの渦に居たからだろう。
———
彼女とは、大学入学後すぐに出会った。
一目で惹かれてしまって、恋人なんて出来たことなかったのに、当日には猛アタックをかけていた。
恋愛のれの字も知らなかったので、すぐに経験豊富な先輩二人に相談した。
「大学なんて出会いばかりなのだから、きっとその子もすぐに良い出会いがあって、お前なんて忘れちまうよ」
「夏休みに入ったら会えなくなるかもしれないよ」
アドバイスを受けた私は焦り、すぐにデートに誘った。もちろん先輩に場所や会話の相談に乗ってもらった。
これは小話になるが、初回は肩肘張らずに、先輩におススメされた店に誘って食事をした。
駅の改札で彼女を見送った後、振り返ると、相談していた先輩方がニヤニヤしながら立っていた。
なんと、食事していた所をバッチリ監視されていたのだ。
不慣れなパスタを一生懸命分けていた様子がツボに入り、酒は進みに進んだらしく、私達の会計の4倍は払っていた。
食事自体は成功。目的であった【好きなタイプの男性を聞き出す】は達成されていた。
聞いたはいいが、自分とかけ離れたものであったため、その後悩んだのは言うまでもない。
———
・・・と、こんなペースで書いていたら一つの本になってしまう。
要点だけつまんで書いていこう。
彼女とは、出会った翌年に付き合うことになる。
俺にとって初めてできた彼女さんであった。
そこから今までにかけて、2回別れ、この度3回目の出会いに至っていた。
約8年間、出会いと別れの渦を、少なくとも私はぐるぐると流されていたように思う。
———
別れの原因は様々だったが、今回、つまり最後の別れに関していえば、もはや理解し切ることは難しかった。
どちらが良い悪いの話では決して語れないと思っているが、それも何が正解かは分からない。
ここから先は私なりの比喩になる。
▽
きっと互いに別の扉を開いて進んでしまったのだと思う。
私は歩いている途中、隣に彼女が居ないことに気付いた。
そしてそれが’大きな出来事’であるという認識を持てなかった。
間違えたのであれば解き直せばいい、そう思っていた。
辿ってきた道を戻り扉の外に出てみる。
すると、そこには無数の扉が目の前に広がっていた。
その時になって、事の重大さに気付く。
彼女も扉を出る、という選択をしなければ、出会えないのだ。
私と同じ選択をしていないのであれば、この無数の扉の中から’正解’の扉を見つけなければならない。
私は叫びながら扉を次々と開け続ける。
扉を開ければ開けるほど、彼女との距離が離れていくが手に取るようにわかる。
終わりがない行動に終止符を打ったのは、どこの扉から語られているかわからない声だった。
それは彼女の声であったかも定かではない。
どうして、そのまま進んでくれなかったの
どうして、戻ってきてしまったの
私は、どこにいるかもわからない彼女に、語り主が彼女だと信じ、届くように大声で答える。
違う扉を進んではいけない
それぞれ、決して交わらないのだから
その声は大きく広がる空間に溶けて消えてしまう。
彼女からの言葉は返ってこない。
———
正直、よくある話だと思う。
上の喩えに乗じて付け加えて話を進めると、何が正しくて何が間違っているのか、やはりわからない。
扉を出る人、扉から出ない人、信じて進む人、疑って引き返す人。
正しさなんてどこにもない。
しかも、蓋を開けてみたら、もっと単純なことかもしれない。
私が勝手に約束して勝手に進んで勝手に戻って、踊り続けていただけの、ただの道化だったかもしれない。
彼女が一度何かをきっかけに勝手に終止符を打ち、「別れるための扉」を開いて進んだだけかもしれない。
それぞれの可能性について論を進めたところで、「別れ」という現実は覆らない。
そう、私は決定的な別れを経験したのだ。
———
別れというのは、出会いと同じくらい様々な色や形があると思う。
しかし、出会いと大きく違う点がある。
それは’その色や形がどういったものなのか’という果てしない問いに、
自分だけで答えを出さなければならないという事だ。
次回は彼女の話からは完全に離れ、出会いと別れについて書こうと思う。
それで私にとって出会いに纏わるものを書き切れたと言えるようになればいいな、と願う。