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2F/当番ノート

CRAZY TANGO DIARY #6 歪んだカレシータ

当番ノート 第39期

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 タンゴのレッスンに通うようになって3ヶ月ほどが経つ。

 まだ3ヶ月なのに、もうタンゴ無しの生活が考えられない。家でも毎日のように練習しているし、音楽も聴き続けている。最近レッスン仲間もできて、教室に行くのが毎回楽しい。本当に、道中スキップしてしまいそうに楽しい。なのに教室のあるビルに入るその瞬間には、まるで面接を受けるときのように緊張して憂鬱にもなる。先生に姿勢を注意されてはうなだれ、褒められては天に舞い上がる。

 この感情の起伏の激しさ、ほとんど恋だ。

 私の恋の眼差しの先にいるのは、大抵うちの教室の先生ペアである。タンゴという、音楽とダンスと男女をめぐるもろもろの観念でできあがった実態のない世界を、私は先生たちの肉体をとっかかりに眺める。

 踊っている二人を見ていると、なんともいえず気分がいい。いや、気分がいいなんて、まるで花見のように穏やかな表現で正確さに欠ける。「胸が轟く」とか「頭が沸騰する」とかの方が実態と近い。

 「他人同士が、別の肉体と心を持ち寄って、なのにひとつの生き物のように息を合わせて動いていること」に対する、理屈の及ばないこの喜びは何なのだろう。もし私が透明人間だったら、ダンスを見ながら床を転がるくらいのことはする。この間などは、ダンスの最中に二人がこそっと微笑みあったのが見えただけで、「ウッ」と口からうめき声がもれてしまいそうなくらいときめいてしまった。

 そして、そういったときめきが私に、タンゴを始めた頃に抱いたあの課題を、何度でも新鮮に思い出させる。

 ――ひとりの人間と、親密な状態を維持しながら一緒に生きていくとはどういうことなのだろう。

 最近になってひとつだけ、それに対するヒントを得た。
 ダンスにも人生にも共通するのであろう、そして、言葉にするとあまりにも単純なこと。

 それは、「ひとりでまっすぐ立つ」ことだ。

 *

 タンゴに「カレシータ」という動きがある。
 カレシータとは、スペイン語で「回転木馬」を意味する言葉だ。
 その名の通り、カレシータの際は、一本足で立った女性を男性がくるくる回すように動く。女性の手を持ったまま、男性が女性の周りを歩くのである。遊園地にあるメリーゴーランドで例えるなら、女性がメリーゴーランドの中心軸で、男性が木馬のように周りを回るというイメージ。

 これを男先生に初めて仕掛けられたとき、まだカレシータを習っていなかったせいもあるが焦った。
 いろんな人のダンス動画で見てはいたし、先生ペアたちのダンスでも毎回出てくるので知識としてはある。基本的に、女性は何もしないで立っていれば(あるいはちょっとアドルノと呼ばれる飾り足をしていれば)いいのである。

 でもそれが、つまり「余計なことをせずに単に立っている」がうまくできない。もちろんポーズ的には立てているのだが、自信を持てないのだ。なんとなく手持ち無沙汰なような、不安な気持ちになる。回っている最中、ずっと「これでいいんだろうか……」という疑念が頭の上にもやもやと浮ぶ。

 そして案の定、終わると女先生に手招きされて言われる。

「首が微妙に曲がってる。すぐそこに相手の顔があるから避けてるのね。でもね、ほんのちょっと首を傾けてるだけでも全身の軸に影響すると思う」

 私はハイとしか言えない。

 そのあと、女先生がカレシータをされているところを見る。
 ぶれない軸、まっすぐ伸びた背骨、ちゃんと下腹に置かれた重心。自分が踊っている姿を私は見ることがないが、自分の立ち姿と、彼女の立ち姿がまったく違うことははっきりわかるのだった。

 *

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 タンゴを習ってみて非常にはっきり自覚できたことがある。

 私はまっすぐに立てていない。

 レッスンの際、私は相手の動きに対していちいち速く、大げさに、逃げるように動いてしまう。「それらしい動きをしなければ」とか「相手とびったりくっついているのが気恥ずかしい」という焦りからそういうことになるわけだが、そもそもの前提として、動きを始める体勢……つまり、「自然な立ち姿」というものに到達していないのである。スタートがコケているのだから、そりゃその後も全体的にコケる。

 それに気づいてから、日常生活の中でも自分の重心移動に敏感になった。よくよく感じ取るようにしてみると、やっぱりちゃんと立てていないことが多かった。なんとなくいつも微妙にフラフラ、おろおろしている。自重でしっかり地面に根を張れていない。まるで酔っ払いみたいだ。

 最初は、おかしい、こんなはずではない、と思った。
 なぜなら、私は十代のときずっと剣道をやっていて、よく大人から体幹の良さや重心の低さを褒められていたからである。同じくらいの体格の選手との体当たりだったら負けない程度には、下っ腹のふんばりのきく女だったはずなのに……。

 と、そこまで考えてまたハタと気づく。
 タンゴで踊る相手は、別にこっちに体当たりなんてしてこない。私も相手も竹刀は持っていないし、それでひっぱたきあったりもしない。ただ優しく抱きしめてくるだけなのだ!

 振り下ろされる竹刀には、こちらの竹刀をぶち当てればいいかもしれない。どんなに姿勢が崩れても、ただ相手に斬りかかっていけばとにかく応戦はできるかもしれない。でも、優しく抱きしめてくる腕に対して、ガチゴチに強張った身体は何もできない。うまく抱き返すことさえ。

 本当は武道だってそうだ。強い武道家は、やはり優しく抱きしめるような自然さで、竹刀や拳を繰り出すことができる。それに対しても、ただ攻撃に備えているだけの身体は無力である。

 なぜかといえばひとつには、「備えている身体」というのが、その身に起こりうる可能性のうちのごく一部、非常に狭い範囲しか許容していないからだと思う。自分の身に起きることと、自分が返すアクションを、あらかじめ規定してしまっている。それによって結局、数多の本当はできたかもしれないことをも封印してしまう。

 そういう、可能性を狭められた身体はもろく弱い。そのままカレシータをされれば、歪んだ軸がギコギコと錆びついた音を立てるばかりだ。

 *

 前にも書いたかもしれないが、タンゴのペアはお互いにやや前傾姿勢をとって踊る。そのためフォロー側は(相手よりも背が低い場合は特に)、リードにもたれているように見えなくもない。

 でも実は、お互いにもたれてはいない。お互いの手に体重をどっしり乗せて動く、ということもしないで動いている(ショータンゴではそういう動きも多少あるが)。どちらかといえばやはり女性が男性に対して体重をかけがちなのだが、これをしてくる人のことを、リードは「重い」と表現するらしい。それについて教えてくれたタンゴ歴の長い女性が、「自分で立てる女にならないとね」と言っていたのが印象深かった。

 このことを考えるとき、私が連想するのは「人」の字である。

 「人」の字にまつわる、ドラマ「金八先生」の名台詞はみなさんご存知だろうと思う。

 「人」という字は、互いに支え合って人となり、人の間で人間として磨かれていく。

 この台詞に対しては昔から、「いや、『人』というのは、長い棒が、短い棒によりかかってできている字じゃないか」というチャカしぎみの反論があった。私も、なんとなくそっちの方が、社会の残酷な現実を表しているような気もしていた。

 しかしタンゴをはじめてから、「いや、やっぱりあいつら(棒のことである)は、別にどっちかがどっちかによりかかっているわけでも、なんなら支え合っているわけでもないんじゃないか?」と思うようになったのだ。

 長い棒がリードで、短い棒がフォローだとすると、彼ら(棒のことである)はまさしく、正しい体勢でアブラッソをしている最中なのだ。一見長い棒が短い棒を押し込んでいるようにも見えるし、短い棒が長い棒にぶらさがっているようにも見えるが、実は頭がくっついているだけで、実はお互い自立している。自立して、それぞれの意志で頭を寄せ合っている。

 そういうふうに誰かと過ごせたら、そしてあちらもそういう姿勢だったら、それはかなりイケてる「一緒にいる」になるだろうという気がする。
 もちろん、これは理想論だ。そんなに簡単にうまくはいかないだろうとも思う。でも、まっすぐ立てる人間が二人で踊るとどれだけ美しいか。

 だから、金八先生にならって、私が「タンゴ的・人の字」を解説するならこうなる。

 人とは、自立し合いつつもあえて顔を寄せ合い、人の間の対話によって人間としての魂を表現していくものなのだ。

 *

 先日丸ビルのレストランで、尊敬する年上の女性とランチをした。彼女はアルゼンチンタンゴを習ったことがあるという話をして、私にこう言った。
 
「みきちゃんに、アルゼンチンタンゴは似合ってると思うわ〜」
「そうですか? なんで?」
「タンゴって、女が男にもたれているように見せて、実はもたれてないやんか? 一見そういう格好はするけど、実際は自分の足でだけ立つよね。なんかそういうもたれられへんところっていうのかな、自立している感じ、みきちゃんっぽいなって。本人にとってはもしかしたら、そういう、もたれられないところがコンプレックスなのかもしれないとも思うんだけどね」
「……」
 
 彼女の目にそう見えているということは、私の中にはたぶん、そういうところがきっとあるのだろう。
 でも違うところもある。私が自覚する自分の問題は、「自立しているように見えて、実は自立しきれていない」ところだ。自分一人で、相手に手間をかけないように動いているつもりで、実はそうはなっていないところ。男性に頼るのが下手なことにも、頼れていないつもりで体重はかけてしまっているところにも、どちらにもコンプレックスはある。

 だから、まずは「立つ」練習から始めよう。

 まっすぐ立って、それから「人」になってみよう。
 そうしたら、回転木馬もよく回るはずなのだ。
  
  
***

今日のおまけミキタンゴ

 今日紹介する曲は「Milongueando en el 40’」。「ミロンゲアンド・エン・エル・クアレンタ」と読みます。このサイトによると、「輝ける40年代」とか「1940年代にミロンガで」とかいった邦題がついていたそう。タイトル通り、初演が1941年です。タンゴにとってはたしかに大盛り上がりの、輝ける時代でした。明るくてゴージャス、タンゴにしては哀しさのない、ハッピーな感じの曲です。

 私はこの曲がとても好きで、ダンス動画もかなり大量に見ています。今のところ一番好きなのは、去年開催された「タンゴのすべて」というタンゴコンサートでの、宝塚の元星組主演娘役だった星奈優里さんと実力派タンゴダンサーのダニエル・ボウホンによるダンス。めちゃめちゃいいんですよ……私が宝塚好きだからというわけではなくて……。オルケスタ・ティピカによる生演奏をバックに踊る二人、とても上品かつ華麗でしたね。

 この「タンゴのすべて」の主催者側の方に話を聞く機会があったのですが、現代のタンゴダンサーは、あまり「生音」で踊る機会がないんだそうです。やっぱりみなさんCD音源で踊ることが多いんですね。そしてCD音源にしか慣れていないダンサーは、生演奏に結構驚いてしまうらしい。なぜかというと、生演奏の場合、演奏の度に微妙にタメもアクセントも変わるし、何よりステージ上の空気や床を振動させるので、身体に対する影響が大きいんだとか。とても有名なダンサーでも、「えっ、リハとリズムが違う!」と動揺してしまうこともあるそう……。

 でもそんな中でも、元宝塚女優の皆さんはヨユーなんだそうです。なんてったって、毎日生演奏で公演してますからね。すげーや宝塚。と、なぜか宝塚の話で今日は締めさせていただきます。

小池 みき

小池 みき

フリーのライター・編集者・漫画家。1987年生まれ。エッセイコミックの著書に『同居人の美少女がレズビアンだった件。』『家族が片づけられない』がある。ダンスは未経験だったのに、31歳でいきなりアルゼンチンタンゴにハマった。

Reviewed by
AYUMI

 ――ひとりの人間と、親密な状態を維持しながら一緒に生きていくとはどういうことなのだろう。

 最近になってひとつだけ、それに対するヒントを得た。
 ダンスにも人生にも共通するのであろう、そして、言葉にするとあまりにも単純なこと。

 それは、「ひとりでまっすぐ立つ」ことだ。(本文より)



ああなんだか耳が痛い。どうにも寄る辺ない。
「ひとりでまっすぐ立つ」こと-- 身体的にも人間的にもできているかと問われると胸をはってハイとは返しづらい、のだけれども。

しばらく前にご縁をいただきあるインタビューにお答えしていたときのこと。「(家人に対し)自分が悪いと思わなくなりましたね」という言葉がぽろっと口から飛び出した。
身近な人間の機嫌が悪ければ(実際は不機嫌でもなんでもなかったりすることもある)オロオロと自分の落ち度を探し、顔色を伺ってあれこれ尽くしているうちに何もできなくなっていくのが常だった自分には、思ってもみない言葉だった。

そうか、わたしはまともな認知をようやく手に入れたんだな。
人生の折り返しを過ぎ、ひとの親にもなって、わたしはやっと対人関係において【中庸】でいられるようになった。
みきさんの言う「まっすぐ立つ」の境地にようよう到達したのである。

みきさん、わたし年々生きるのが楽になるけれども、「まっすぐ立」てるようになってまた格段と楽になりました。
立てるようになってほやほやなのにこの体は老いていく一方だけれど、もっと面白い場所へ行ける気がします。
いつか一緒に互いの円を描いて踊りましょうねえ。

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