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2F/当番ノート

CRAZY TANGO DIARY #3 タンゲーラ、そして完璧な夢

当番ノート 第39期

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 一歩、二歩、三歩。

 男の歩幅に合わせて後ろ向きに歩く。三歩めで、左足を右足の上に重ねる。
 すると、男の手が私の背中をゆっくり引き寄せる。

『前に出て』

 その要求に私は応える。左足の下の右足を旋回させ、左足を軸にななめに一歩前進。
 だが進んだ先で、ふたたび彼の両手に体を引き寄せられる。

『正面に戻ってこい』

 男の手が告げ、私の背中が伝える声。
 私はすぐさま従う。
 彼の伝言を理解できることが嬉しい。
 私は両足をそろえて方向転換し、男の正面に戻っていく。
 いつだってそこが私の、一番正しい居場所である。

 
 
「うーんとねえ、一回目のオーチョの歩幅が大きすぎるのかな」

 終わるや否や、男先生の駄目出しが降ってくる。
 先生相手にステップをしたあとは修正タイム、ライターである私の感覚でいうと「赤入れ」のお時間だ。

「みきさんのやり方は、足からこう、ぐいっと出てる感じ。そうするとちょっと上半身が後ろに倒れちゃうでしょ。そんなに大股に動く必要ないから、胸から無理のない歩幅で出るようにしてみてください」

 もう一回、と言われて私は男先生の左手を握る。
 サリーダからの、前進のオーチョ二回。
 基本も基本、うんと初歩的なステップだが、初心者の私はまだまだおぼつかない。男先生の胸に、ほおずりせんばかりに近寄るのにもまだ慣れない。しかし。

 相手が前進してくる気配を察知して後退する。
 相手がこちらの体を引っ張るのを感じて前に出る。

 それだけのこと。
 リードの要求を感じ取り、付いていくだけのこと。
 本当にただそれだけなのに、楽しい。
 震えるほどに楽しいのだった。

 *

 前回の記事で書いたように、二回目の体験レッスンで心に若干の痛手を負った私は、最初に行った教室に舞い戻った。そして、週に一回ないしは二回、タンゴのレッスンに通う日々が始まった。そのためにタンゴシューズを買い、ヨガパンツも買った。タンゴのコンサートにも行くことにした。

 靴は2万円したし、レッスン代だってコンサートのチケット代だって決してお安くはない。でもかまわなかった。ゆうちょに放り込んだまま手をつけず、額が減らないことだけに安堵していたへそくり貯金をつぎ込むことにしたのだ。そしてライティングの単発仕事が入る度、原稿料の額を見ては即「タンゴのレッスン12回ぶん」などと計算をした。
 ハマっている。
 そう宣言して差し支えない状態といえるだろう。

 レッスンの度に、かなりの満足感があった。
 もちろん、毎回毎回「イエス最高!」と思うわけではない。理想どおりに動けなくてがっかりして帰ることもなくはないし、グループレッスンの人数が多過ぎて、あまり細かく教えてもらえずに終わることもある。
 でも毎回、一度は必ず「あっ、これだ!」と思う瞬間があった。

 これが欲しかった。これをしたかった。
 そう思う瞬間が。

 ”これ”っていったい何なんだろう……。
 レッスンに通い始めたころ、私はよくそう考えたものである。

 *

 その感覚はほとんどの場合、男先生とフリーで踊っているときに訪れる。つまり、バックにタンゴ音楽を流し、男先生のリードで即興的に踊っている時間だ。

 この、「即興」という部分について少し説明しておく。

 前二回でもちらっと書いてきたが、私が習っているのは「サロンタンゴ」だ。これは、見た目のダイナミックさ、華やかさを重視した「ショータンゴ」とは別物とされている。

 二つの違いは明確だ。
 ショータンゴには振り付けがあり、サロンタンゴにはない。
 ショータンゴは観客の目を楽しませるためのものだが、サロンタンゴは社交のためのツールだ。タンゴのメインフィールドはミロンガと呼ばれるパーティである。そこで人々は誘い誘われ、混雑したフロアに出て、二人で自由に、即興で踊る。

 踊るとき、どんな動きをするかはその場でリード(主に男性)が決める。それに対しフォロー側(主に女性)は、「リードがこの動きをしたら、フォローはだいたいこういった動きで返す」という「お約束」におおむね沿って動くのだ。だから「即興」といっても、私の方が好き勝手に踊るわけではない。
 ただし、華やかな動き方をするのはどちらかというとフォロー側だし、フォローが動き終わらないとリードはステップを次の動きへとつなげていきづらい。だから、ダンスの完成度は決してどちらか一方のレベルだけでは決まらない。そこに面白みがある。

 「決められた動きをするなんてつまらん、クラブダンスみたいに好き勝手な動きをしたい」と思う人もいるかもしれない。でも、多少決まり手があっても、踊りのバリエーションも決して制限などされない。

 これは、別にタンゴに限らないだろう。俳句の文字制限が5・7・5だからといって、そこで描かれる光景が決して簡素にはならないように。将棋のコマそれぞれに移動範囲が厳密に規定されていても、だからこそ盤上には深遠なる勝敗の宇宙が広がっているように。言語、そして文字という制限が、人間のコミュニケーションの可能性を、ほぼ無限大にまで開いたように。
 システムとして美しく組まれた制約は、むしろそのシステムの上を果てしなく自由にするのである。

 *

「タンゴを踊るために大切なことはね」

 女先生はよく言う。

「リードは、『今から何をするか』を相手にすべて、きちんと伝えること。男性が前に出たら、女性は自動的に後ろに下がります。男性が右に体重をかけたら、女性は左に重心が移動します。男性の動きを感知しなければ女性は動かないし、やりたいことが伝わっていなければ女性は踊れません。ひとつひとつ、『次はこれがしたいです』としっかり伝えること。
 そしてフォローは、思い込まないことが一番大事です。『こういうリードがきたから次は絶対にこの動きだ!』と勝手に予測して、勝手に動いたりしないで。相手のリードをきちんと待つ、そして一旦受け止めてから動く。リードは伝える、フォローは聞く。その繰り返しがタンゴなんです」

 しっかりと要求を伝えること。
 勘違いせずに受け止めること。

 初めてこの説明を聞いたとき、「対話の作法そのものだなあ」と思った。

 一方がただ喋り散らしていても面白いやりとりにはならないし(話している方が勝手に気持ちよくなっていることはあるだろうが)、話を受けている側がただウンウンうなずいているだけでは場が盛り上がらない。

 タンゴもまた、互いにいかに伝え、いかに受け止めるかが重要な会話、対話なのだ。

 伝える、受け止める。
 そのふたつに優劣はなく、またどちらが欠けても「対話」はあり得ない。
 年齢も性別も、何かの習熟度も関係ない。
 二人の人間がいる—そのことが生み出す可能性に賭けて、互いに信頼し合うことから始まる対話。

 ペアダンスはきっと、そのメタファーのひとつだ。

 *
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 タンゴの何が、そんなに私のツボにハマったのか。
 その答えはたぶん、「徹底的に対話させられる」ことにあるのだろう。

 私は飢えていたのだ。
 誰かにまっすぐ要求を伝えてもらうことに。
 そして、聞き届けた要求に応えようと努力することに。

 別れた恋人は、あまり対話が得意なタイプではなかった。
 口数はむしろ多い方だったが、「あなたの知っていることではなく、考えたことや感じたことを話してほしい」という私の要求にはいつもかなり戸惑っていた。言いたくないのではなく本当にわからないのだ、とよく言われた。典型的な男社会で働いていた彼は、他者から知識の提供を請われることはあっても、人生観や本音について聞かれる機会はあまりなかったらしいのである。

 一方私の方はといえば、今も昔も、価値観や本音を言語化すること以外に能のない人間だ。そんな私の「考えを聞かせてほしい」という要求は、彼にとっては時に「攻撃」とすら映ったようだ。「おれはね、君みたいにいちいち考えてものを言っているわけじゃないんだよ」とかなりきつめに言い渡されたこともある。

 そうだよな、みんながみんな頭の中のことを言語化したいわけじゃないんだから一一応私はそのように納得していたし、相手を「尋問」しないよう注意も払った。

 ただ、それはやっぱり私にとって、纏足をはいて暮らすようなものだったのだと思う。
 それが良いか悪いかは別として(良いとは思っていない)、ただ事実として、本性として、私の中には「対話での満足」へのかなり強い欲望がある。
 前頭葉が前のめりの言葉人間だから、「ただ一緒の空間にいるだけでOK」とはまったく思えない。表面的な、おしゃれな会話なんてむしろストレスにしかならない。面白いこと興味深いことを言え、私の話を聞いてあれこれ考えろ、私も脳をしぼりつくしていろんな言葉を持ってくるから、といつだって思ってしまう。

 言葉なんて不完全なものだし、人間同士、完璧に理解し合うことなんてできないじゃない。話し合いで得る満足なんて欺瞞だよ。

 そんな冷ややかな言葉を聞く度、内心では激怒してきた。
 私がいつ「完全な会話」や「完璧な理解」を求めたか。

 不完全上等、不完璧大歓迎だ。私は完成図を手にしたいのではない。いまこの瞬間よりももっと面白い、予想外の世界にたどりつきたいだけだ。
 もちろんそそれは、相手も同じようにそれを望んでいなければ、決してたどり着けない場所でもあるのだけれども一一。

 *

「肩もっと落とせる」
「ヒーロのとき右手を縮こめないで、むしろ押すようにして」
「左足を下げるのが遅いからもっと早く動かして、でも床を踏むのは男性のあとね」

 男先生の駄目出しを聞きつつ、私は黙々と基本のステップを踏む。

 前に出る、下がる、回る、止まる、前に出る、下がる。
 相手の要求を理解し、その理解を体で表現できる快楽。

 私と違い、先生の方はレッスン中にそんな感じ方はしていないだろう(たぶん)。彼らにとって、生徒との練習のダンスは対価を得てのサービスだからだ。彼らはその技術で私たちに、対話の喜びを疑似体験させてくれているのだ。

 でもこれが、手加減抜きのダンスだったら?
 向こうもこちらも熟練者で、音楽に合わせて自由自在に踊れるのだとしたら。
 相手の本気の要求に、本気の応答ができたら——。

 その想像をするだけで、私はうっとりしてしまうのだった。

 理想の形に、体はもちろん追いつかない。
 でも繰り返すこの動きの果てに、それがあるのはなんとなく予感できた。
 リードとフォローが、完全に調和して作り上げる円環の王国。
 どっちの方がエラいかとか、どっちの方がが大変かとか、そんな次元の駆け引きは超越した、対話の極地。
 たどり着ける気はしないけど、でも追う価値はある。

 私たちの魂はそこからやってきたのだと、私は信じている。
  
 
 *

今日のおまけミキタンゴ

 今回は、「ショータンゴ」と「サロンタンゴ」の違いについて補足説明を。文章だけだとちとわかりにくいかもしれないので動画をお見せします。

 まずショータンゴの方から。
 曲は私の大好きな「Tanguera(タンゲーラ)」。10秒でいいんで見てください。ヒエッてなるので。ちなみにこの曲名は「タンゴ的なもの」という意味なのですが、同時に「タンゴの上手い女性の踊り手」のことも指します(男性の場合は「タンゲーロ」)。

 即興ダンスでないのは見たらわかる通り。音楽の構成に合わせた振り付けがあり、綿密な稽古の繰り返しがあって初めてできるダンスです。特に男性が女性を持ち上げて振り回すような動きは、ショータンゴでしかまず登場しません(危ないからね)。この手のダンスは、各種選手権や、イベント・コンサートなどのステージで披露されることがほとんど。

 一方、こちらがサロンタンゴ……の踊られているパーティの模様です。日本の人気タンゴダンサー、ユージン&アリサ先生たち主催のミロンガ。

 すげー混雑してますね。でもだいたいいつもこんな感じらしいです。当然、それぞれの動きもアクロバティックにはなりづらい。音楽を楽しむこと、二人で心地よく踊ること、周りのカップルのダンスを妨げないことが重要なので、超絶技巧を周りに見せつける必要はないのです(そういうプレイをする人たちもいるようだけど)。

 ユージン&アリサ先生たちがしっとり踊っている動画もあったのでついでに載せておきます。

 いかがでしょう。「リードは全部伝える、フォローは勘違いせず受け止める」の世界観、少しでも伝わったら嬉しいんですが……。

小池 みき

小池 みき

フリーのライター・編集者・漫画家。1987年生まれ。エッセイコミックの著書に『同居人の美少女がレズビアンだった件。』『家族が片づけられない』がある。ダンスは未経験だったのに、31歳でいきなりアルゼンチンタンゴにハマった。

Reviewed by
AYUMI

「お互いについて話をする」って、なんて難しいんだろう。
言葉に落とし込む中で自分の内にも、そして実際の会話においてもぽろぽろ取りこぼされていく感情の多さに誰しもが暗澹たる思いを抱いたことがあるだろうし、またその一方でわたしたちが操っている言葉とやらは、色んなものを含みすぎている。そもそも自分の胸の内について語るという作法が身についていないケースも多くある。

眼前のあなたとこのわたしが、これ以上無くがっぷり四つに組み合うことができたなら、さぞ愉快なことだろう。
それを実現するには、野放図な言葉は足りなすぎるし多すぎる。
残された主な手段はこの体だが、素っ裸裸で「はい自由にやって!」と放り出されて、思いを伝えられ/受け止められる人間がどれだけいるだろう。

ある規則のもとで操作すること。
実は徒手空拳よりも某かを携えていたほうが身体操作の精度は上がるらしい。
ようはガイドとなるものを与えることで闇雲な労力を削減し、出力先を絞ることでパフォーマンスの質を上げるということだろう。

数ヶ月前に受けたとある即興表現のワークショップで、講師の方がわたしにこう仰った。
「目の前のコンテンツにいかに集中できるか。自意識をどれだけ捨てられるか。」

眼前のあなたとわたしが描く世界に没入するための手段を得られたなら。
みきさんが「夢」と呼ぶ彼方の地を、わたしも踏んでみたい。

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