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2F/当番ノート

その街とわたし【大阪・梅田】

当番ノート 第41期

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東京に30年、そして京都は嵐山に2年住んだのち、大阪に移ることを決めた。
大阪には、学生の頃から10年ほど通い続けていて愛着があった。ゆかりの深かった大阪市南部にも憧れがあったが、北部のターミナル駅である梅田に徒歩で出られることを条件に物件を探した。東京は23区を二分して語る場合、下町感のある東部と、副都心とよばれる新宿・渋谷・池袋などの街を含む西部とに分けて語るのが一般的だが、大阪は南部と北部とに分けられる。

東京の中心は、そこに住んでいると驚くほどに意識されないが、やはり皇居なのだと思う。大阪の中心はなんだろうか。大阪城?いや、きっとその城下町として栄えた船場の街並みだろう。大阪は商人のまちなのだ。
東京における皇居と同じように、船場の街並みや文化は、大阪で暮らす人達の精神を、深くて見えない根っこの部分で規定しているように感じる。大阪の人は「自分を下げる」コミュニケーションが巧いと言われるが、商いをする人達が円滑にやりとりをするために培われた知恵なのだと思う。

東京にいると、自信に溢れていて頼りがいのある、現代のデキる営業マンみたいな人物が、商売をするのにも向いているのではないかと思いがちだ。大阪は、そうではない。コードが全然違うのだ。一方的なプレゼンテーションを大阪の人はむしろ嫌う。ヒトの人生に付き物のさまざまな辛苦を察し、相手を慮るコミュニケーションのできる人が商売でも成功する。
これはおそらく、想定している時間の尺が違うのだろう。都市としての歴史が相対的に浅い東京は、発想が短期決戦だけど、大阪の人達は「何代も後に返ってくる」ような時間感覚をわりと当たり前に持っている。
どちらがいいということではない。わたし自身は、東京の時間感覚に殺伐としたものを感じたこともあれば、大阪の時間感覚にいささかついていけなさを感じたこともある。同じ人間の中にも、いくつもの時間軸があって、自身の年齢や状況によって伸びたり縮んだりする。東京と大阪を行き来することで、そのことがありありとわかるようになった。

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大阪の南北の繁華街はそれぞれ「ミナミ」と「キタ」とよばれる。「ミナミ」は難波や心斎橋を含む一帯で、「キタ」は梅田から北新地にかけての界隈を指す。「ミナミ」にはグリコの看板があって、道頓堀があって、よしもとのお笑いを上演するなんばグランド花月もあって、外から見た「大阪らしさ」に溢れている。
来街者には「ミナミ」のほうが魅力的に感じられそうだが、東京で育ったわたしにとっては「キタ」の空気が落ち着く。
近畿圏に住むようになってから、梅田は渋谷に似ているな、となんとなく感じていた。駅前に林立する商業施設を、ペデストリアンデッキを通って回遊する設計がそう感じさせるのかしらと思うが、そもそもまちの成り立ちが少し似ているのだ。

新宿、渋谷、池袋。それぞれ世界有数のターミナル駅だ。わたしは東京の郊外で生まれ育ったが、青春と思える時期を過ごしたのはこれら、東京の中でも「副都心」と称されるまちだった。
高校は新宿高島屋の真向かいにある都立高で、大学は池袋が最寄りだった。大学を多重留年し25歳でようやく会社勤めをしたものの1年足らずで退職し、ふらふらしていたときに実家を出て住んだシェアハウスは、渋谷駅から歩いて10分かからない場所にあった。
10代の半ばから20代の終わりまで、わたしはほぼずっと副都心のまちの空気を吸って生きているのだ。だからだろうか、それに似た空気に触れると安心する。

梅田も東京副都心も、繁華街として存在感を持ち始めたのは1930年前後だ。
梅田の駅前から500mほど離れた北新地は花街としての歴史を持つが、梅田駅周辺は、明治の世に大阪駅が敷設されるまでほぼ原野で何もなかったという。江戸時代には、現在の梅田駅北側に大規模な墓地を擁していたこともあった(「梅田墓」といって、2013年からの「うめきた」再開発にともなう発掘調査で200体以上の埋葬人骨が発見されている)。
明治7年に、当時の大阪の中心街だった船場や中之島から見ると「まちはずれ」だった場所にできた大阪駅は、それでも少しずつにぎわうようになり、1910年に阪急梅田駅が開通、29年に阪急百貨店が開業していよいよ繁華街らしくなってゆく。
いっぽう、池袋に菊屋デパート(現在の西武百貨店の前身施設)が開店したのが1933年、渋谷に東横百貨店(現在の東急百貨店)ができたのが34年。
東西ともに鉄道の要衝であるまちが繁華街然としていったのが昭和初期のこの時期で、それは、日本の近代化の歴史の一幕でもある。

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梅田では今、2013年のグランフロント大阪開業を皮切りとした再開発を進めていて、まちはいっそう近未来的なようすに変化を遂げている。
子どもの頃にSF映画で見たような硬質で巨大なビルは心をときめかせてくれるし、LUCUAやグランフロントなどの新興の商業施設は、入っているテナントも目新しさがあって魅力的だ。それでも、わたしが梅田でいちばん好きな場所を聞かれたときには、迷いなく「新梅田食道街」と答える。
駅の高架下の狭い通路に、100軒近くの多彩な飲食店が並んでいるのが新梅田食道街だ。1950年に旧国鉄施設を退職する職員への救済事業として設立されたこの場所は、戦後から今日までの日々を駆け抜けてきたエネルギーに満ちている。

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わたしは昭和の末期に、東京副都心の開発の一翼を担った会社に勤める父と、その勤め先を通して出会った母のあいだに生まれて育った。普段は特別意識することもないけれど、そうして育ってきたことが、梅田のまちをこれだけ居心地よく感じる下地を作ってきたのかもしれない。
今日もこれを書き終えたら、新梅田食道街にある大好きな串カツ屋「松葉 総本店」に行って飲んでいると思います。

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汐月 陽子

汐月 陽子

フリーランスで企画や執筆のお仕事をしています。「書肆アルケス」の屋号で批評を名乗らない批評の同人誌を作ったり、観光プロデューサーの陸奥賢さんと「ゲニウス・ロキ探偵社」なるユニットで、まちの歴史と物語をさぐる「創造観光」という活動にいそしんだりもしています。20代はソーシャルデザインに期待をかけていたので、30代はもっと、自分を含めたあらゆるひとの個人的な営みを丁寧に触れるようになりたい。

Reviewed by
ぬかづき

大阪には住んだことがなくて、京都から関空や伊丹に行くときに通り過ぎるくらいだったので、大阪の中の地名を聞いても、あまり明確なイメージがわかなかった。でもそれを、東京の地名との類似で考えると、なかなかおもしろい。梅田は渋谷みたいなところなのか…ふむふむ。大阪の梅田。覚えたぞ。

------梅田とわたし (レビューワー) ------
汐月さんの当番ノートがあがってきたとき、私はちょうど大阪にいた。大阪っぽいものを食べたいな…と思っていて、ちょうど梅田で乗り換えをすることになったので、串カツの「松葉 総本店」に行ってみた。

一歩足を踏み入れて、あ、ここはいいところだ…と思った。言いようによっては「殺風景」な店内の真ん中に調理スペースがあって、それをぐるりとカウンターが囲んで、主におじさんたちがずらりと、瓶ビールを傍らにおいて、串揚げを頬張っている。お店の人たちは忙しく立ち働きつつ、お客さんと雑談したり、お店の人どうして軽口をたたきあったり。北千住の「大はし」のことをちらりと思い出した。

一見さんお断り的な雰囲気はなくて、串カツ初心者の私にも、親切に、ここ空いてますよ、と案内してくれて、注文の仕方などを教えてくれる。ひとまずはよくわからない串と、若鶏の骨付きを取って、ソースにつけて皿に取る。…おいしい! 飲み物をちびちびと飲みながら、数分の間隔をおいて眼の前に出てくる揚げたての串のなかから好きなのを取って食べつつ、合間にぽりぽりキャベツなんかかじっていると、知らないあいだに食べすぎてしまいそうだった。

何本か食べ終わり、後ろ髪をひかれながらもその場で「おあいそ」を済ませて、ふとテーブルの表面を見ると、私のところはソースがぽつぽつと飛び散っているけれど、隣のおじさんのところはまったくきれいだった。まだまだ修行が足りないな…と思いつつ、梅田をあとにした。

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