最近、友人の批評家である黒嵜想が、GAINAX京都代表の武田康廣さんと「万博、GAINAX、アーギュメンツ」というイベントを開催した。このイベントは、私が企画し黒嵜が編集したアーギュメンツという三号雑誌の総括イベントなのだが、そこで交わされた議論の中心が「同人から法人へ」であったと聞いた。少し私事になるが、これは私という個人が渋都市株式会社(旧:渋家株式会社)に法人成りしたことを受けての部分もあったのではないかと推測する。その上で、いまアーティストやキュレーターと呼ばれる芸術に従事する人々が、どのようにして新しさを獲得していくべきなのかについて考察したい。
私は2008年ごろよりアーティストとして活動している。その活動は、主に固着可能なメディアを発見し、そこで人々と時間を共有することによって達成されてきた。固着可能なメディアとは、共同制作が可能で、かつ作品としてのポテンシャルを有しており、そのメディア自体が一つの回路になりうるものである。現に私は、家、演劇、雑誌、展覧会といった活動を行ってきたが、それらは様々な作品および回路として機能し、現在の渋都市株式会社という法人にも影響を与え続けている。しかし、一方で、こう考えることもできるだろう。それならば、最初から法人を設立し、それを使って様々な方法を試みればよかったではないか。
私は、それは違うと考える。私たちが法人になったのは結果であって、あらかじめそれが目的だったのではない。その無目的な活動の積み重ねが法人という人格を有した時、全く別種のリソースとして機能する。それが重要なポイントである。人間が社会化されるという時、私たちは社会化に際して、あるさみしさを感じることを否定できない。それは私たちが、本来持っていたはずの平等性、ただ経験を共にしただけであるという事実、それらがある計測可能な何かに置き換えられてしまうということによって生じるさみしさである。私たちは社会というさみしい空間に、なるべくなら関わらないで生きていきたいと思っている。
しかし一方で、私たちは社会なしではいきていくことができない。私たちに生活、関係、尊厳を与えるのは、また社会である。であるがゆえに私たちは、さみしさに目をつぶりながら、社会というものとどうにか関わろうとして生きる。この好むと好まざるとに関わらず、私たちに隣接した形で、社会が私たちを抱擁することが、私たちをさみしさと共に優しく抱きしめる。しかし当然ながら、抱きしめられること自体は、私たちが望んだことではない。であるがゆえに、そこに反抗や抵抗が生じる。私たちは社会の前では、誰もが単なる個人にされてしまう。その暴力性が、私たちが自分を矮小に思わせることは間違いない。
同人というのは、ある固着可能なメディアを発見した少数の者が、その固着可能なメディアに対して、同じ時間を共有するということだ。その共有が私たちをさみしさから少しだけ救うことがある。という訳で、私たちは永遠に、この遊びをやめないだろう。かくして私は10年ほど、家や演劇や雑誌や展覧会を続けている。一方で葛藤もある。それは、私たちが作った同人が、ある世界の先端的な方法を扱っていたのではないかという幻想だ。その幻想の集積が芸術と呼ばれ、かくして芸術という運動は、固着可能なメディアを発見した少数の人々が、その方法で世界の先端に触れたいという希望を映し出す。そのようにして表現は生まれる。
すなわち、表現とはメディアの衣装である。私たちは着飾って先端さを競う。その競われた先端的な表現たちは、ある背景や、方法や、進路を映し出す。そうして映し出された表現を、好ましいと思いパトロンが買う。こうして私たちは自分たちの衣装が、あるパトロンによって肯定されたという喜びと、彼と新たな時間の共有をできるかもしれないという期待を獲得する。いうまでもなく、ここには権力や、政治や、思想が関わらないことはありえない。しかし、それよりもまず、先にあるのは、私たちが獲得した新たな時間、新たな関係、新たな期待こそが、権力や政治や思想よりもたのしみとして存在するという事実である。
さみしさとたのしみは、苦味と塩味のようなものだ。苦味だけではいきていくことに絶望し、塩味だけではいきていけない。そのカクテルを私たちが必要とする時、そこに芸術が生まれる。一方で、それに到達するまでの間、アーティストは虚無を彷徨うことになる。あるいはそれは、パトロンの方にも存在しているのかもしれない。これは古くからある普遍的な話だ。私たち人類すべてに寿命がある時、私たちは寿命に到達する前に何かしらの出会いを求める。それはロマン主義ではなく、ロマンである。そのすこやかなロマンのための一つの方法として、これからも芸術はあり続けるだろう。そうして私たちは、新しい、次の固着へと、足を運ぶ。
日本はロマンの無い国家だと言われる。個人と社会の接触面として「メディア」の可能性について熱心に議論するものはあっても、社会と世界を横断するような「表現」を試みるものは嘲笑の対象だ。主義としてのロマンはここで喪失される。ゆえに私たちは、社会と世界が同一平面上に並ぶロマンは、市場経済にその場を移したのだと一度、素朴に受け入れる必要がある。そもそも私たちは、現実には社会と世界の接触面はそこにあるものとして実感しながら生きている。すると、既に述べたことを踏まえて、次のようなロマンが新しく見出せる。すなわち、たのしみの圏域が表現に先行すること自体が芸術の本質であり、この圏域を市場経済の平面の上に仮設することが、次なる世界表現の可能性なのではないかと。
ここで警戒せねばならないのは、市場経済の平面上に、共同制作の単位として「メディア」が放りこまれたとき、そこで起こる情報化である。私たちが情報化と金融化という革命の後に手にしたものは、追跡可能な取引情報を元にした、計算可能な信用である。もし、あらゆる作品が追跡可能な取引と計算可能な信用でのみによって成り立っているシステムだとしたら、芸術にとって最も重要な「価値の発生」は、そこでは計算可能なものとして交換可能となる。むろん、これは先に断言した私の「芸術」の本質と真っ向から矛盾する。たのしみの共有は閉鎖的な圏域と共にある。たのしみを圏外へ放つことは、たのしみを計算可能なものに置き換え、たのしみ自体を打ち消してしまう。私たちはその状態を「飽き」と呼ぶ。言い換えれば、たのしみの圏域とは「計算不可能な謎」を作るヴェールのことだ。
あらゆる芸術は、社会的存在でありながら、同時に世界的存在であることを夢見ている。そして芸術の本質とは、計算をはねつけるヴェールに覆われた信用と取引、たのしみの圏域を作ることである。であるならば、社会的存在と世界的存在の二重性の間を取り持つヴェールの一つに、法人という仮設を宿命づけられたシステムは使うことができる。いまの私はそう考えている。そして言うまでもなく、人間社会に存在しているものは、かつて誰かが作り出したものだ。どれほど盤石なように見えても、それは世界の中で仮設され、社会を支えるシステムに過ぎない。そのようなシステムがかつて生み出されたことに私たちが思いを馳せる時、それは基本的に、何か肯定のための技法であったと考えることから始めたい。私たちの目の前にあるものは、いつか誰かが仮設した芸術に過ぎない。ゆえに、これもまた、はじめ嘲笑され、やがて信頼された、ある態度の形式なのだ。そういまの私たちは理解できる。
もし、ある作品の中に追跡不可能性を発見したら、その作品を追求すること、販売すること、購入することはよいだろう。それは、その追跡不可能性が、ある愛と結びついている可能性が高いからである。私たちが同人や芸術、法人以前の何かを志す時、そこで私たちが擁護したいのは、紛れもなく愛や友情である。これは反転して、追跡不可能性のない愛や友情は成立しないということにも等しい。私たちが芸術の輪郭を捉えた時、芸術もまた、私たちの輪郭を捉える。その芸術に捉えられた私たちの輪郭が、私たちに愛や友情を確信させる。その確信が、たとえ間違っていたとしても、その夢を見ることを肯定してきたのが芸術という運動である。