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2F/当番ノート

考えて苦しみ、考えずとも苦しい。それならば考えて生きたい。

当番ノート 第46期

わたしの仕事は駆け出し研究者。対象はファッション。趣味はないと思う、生活の大半は執筆やそのために必要な文献に当てていて、残った時間は直接的には自分の研究には関係ないけれど勉強のために本を読んでいる。その時間を確保するためにテレビは持たず、映画や音楽も研究に関わらないとあまり見ない。Netflixでみるのもジェンダーやファッションに関わるものが大半。土日も研究会や講演の聴講に行くことが増えるものの平日と変わらない、パートナーは趣味を極めているけれど同じく私生活でも作業する人なので、一緒にごはんを食べるくらいはするが一緒にどこかに行くということは滅多にない。家で猫と過ごしながら、たまに会話を交わしながら、それぞれ作業したり休んだり。自分にとって休日は、締切明けや出張後にぼろぼろな状態で1日中ベッドから出られないか、仕事が煮詰まってもう書けない、なにも考えられないとなって1日中猫たちを見つめて過ごすか、それくらいだ。以前は趣味と言っていたお酒も、依存症のように毎日呑んでいたのに全く飲まなくなった。

つまらない生活に思えるだろうか。実際、今の生活が楽しくて、とてもとても幸せだ。ここでのエッセイも残り2回、わたしという人間のこれまでについてつらつらと書いてきたが、自分にとって大きな部分を占めている仕事のこと、キャリアへの想いについて書いてみようかと思う。

昨今、博士課程(とりわけ文系院生)のキャリアの問題が議論となっている。そんななかで運良く定職を得ることができた自分がキャリアとか生活のことを語るというのは、自慢や批判に聞こえはしないだろうか、誰かを傷つけないだろうか、そんな気持ちがある。こんな心配をしていること自体が、わたしたち若手研究者が置かれた状況の不安定さを表しているとも思う。だからこそ、あえて書きたい。ただ、今回はあくまでわたしの体験、感情、今の想いとして書くことを許してほしい。もちろん博士課程や若手研究者のキャリアに関しては問題意識をもっているものの、誰かを宛先にした批判や提言として書くものでなく、あくまでわたしの私的な言葉の吐露として受け止めて頂ければ幸いに思う。

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わたしの人生観に最も影響を与えた人物、それは間違いなく亡き母親だ。わたしの母はとても聡明で、社交的で、器用な人だった。実家のある山梨を離れてより上位の大学を目指すチャンス、地元に新設される医学部を再受験するチャンス、地元でアナウンサーになるチャンス、そういったチャンスが彼女の前には提示されたらしい。そんな母は実家を離れるのをめんどうに思い地元の大学に進学、当時の時勢に反映されて地元に支社のある国内大手メーカーに就職、妊娠を機に退職して専業主婦になった。そんな母は子供の目からも、明らかに仕事をしたい気持ちがあり、能力を持て余しているように見えた。
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そんな母は、わたしには自分のやりたいこと、キャリアを思う存分つきつめてほしいと託していたと思う。わたしに会いに東京に来る母、それは楽しそうにしていた。わたしが大学3年生になって、母はパートタイムで塾講師を始めた。本当に生き生きして、楽しそうだった。だからこそ、自分の身体に蔓延る病魔に気がつかなかったのだと思う。やっと検査にいったときにはもう、だいぶ進行した乳がんだった。

母の病気が発覚したときにも、わたしはイギリスへの留学が決まっていた。母が、母のことを理由にわたしが渡航を辞めるのを望むわけがない。そう思ったわたしは渡航をやめなかった。しかし渡航して2年目、母の病状はみるみる悪くなり、母の残りの日々にそばにいてあげるという選択肢もあるということを家族から提案された。あくまで決めるのは自分だという前提で。

ここで初めて、自分自身のライフプランを考え直した。当時、わたしはファッションデザインの名門校であるセントマーチンズでファンデーションコースからBA へ入学する選抜試験を終えたところ。ファンデの修了制作が思うように評価を得られず、第一志望のコースには落ちてしまっていた。留学開始時に得た奨学金も尽き、不安しかない4年間の始まりだった。ロンドンでは一人暮らしは難しくフラットをシェアするのが普通だったのだが、卒業して憧れのデザイン職につけたとしてもシェア暮らしが当たり前、日本に帰国しての就職もなかなか難しいという将来を悲観するような噂ばかり流れていた。

確かにファッションは好きで、高校生のときにデザイナーになりたいと思ってから意地のように創作を続けてきた。だけど、このときは恐れていた、自分には才能がないことを。才能のカケラはあるかもしれない、ただ、ファッションデザイナーという適性の枠組みでの創作に向いている人が自分よりもたくさんいるということを痛感していた。それでもなお、好きだから続けられるか?何年経っても貧乏暮らしで過ごしても、好きだから幸せと言えるか?自問自答した。そして、帰国することを決めた。ここですぐに企業への就職、とならなかったのが自分の甘ったれっぷりを表しているだが、これは単に夢を諦めたわけではなく自分に合う別に道で目標を叶えるルートを選んだと、自分も周りも一時的に気持ちの折り合いをつけるための選択であったとも思う。
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しかし大学院の受験よりも前に、母は旅立ってしまった。そこからの自分は5年ほど価値観の揺らぎが大きく、精神的に非常に不安定。結婚なんかより、子供なんかより、そんなことより自分の好きなことをしなさい。それはきっと、母の人生のオルタナティブストーリーを演じることでもあったのだろう。陽子はショートヘアが似合う、そういわれてずっと短髪だった幼少期。確かに服はフリフリの女の子らしいものを着ても、いわゆる典型的な女の子であることを避けるべきだと言われているようにも思っていた。母を失って、自分のアイデンティティも揺らぎ、規範化された女性らしい容姿、そして女性としての幸せを得たいと思うようにもなった。そういう気持ちに行動も引っ張られ、特に恋愛関係ではメンヘラっぷりを炸裂させていた時期もあった。

こんなメンタリティになってしまったことには、院生のキャリアパスの不安定さも影響していた。上京、海外留学、大学院進学。奨学金などには恵まれていた方だとはいえ、生活は苦しい。30歳が近づいても、まったく見通しの立たないキャリア。子供に苦労はさせないという家族の方針もあってか浪費家に育ってしまったわたし、殊更いつも生活は苦しい、人生に不安しかなかった。お金持ちでなくてもいいから、好きなことをしたい。それもわかる。一方で、やっぱり人並みの贅沢ができるくらいには稼げるようになりたい。これが本音ではないだろうか。院生生活は、そんな当たり前の気持ちをもったとしても明日の家賃すら払うのが不安なほどの状態、人並みの人生設計なんて来年の事を言えば鬼に大爆笑されるような気がしていた。不遇に耐えて、質素に研究に勤しむことが美徳のように思え、好きで選択したのだから耐えて当たり前、欲求を持つこと自体が悪のように思えてしまっていた。そんななかで悪い意味で女性であることを利用しようとしてしまった自分が生まれてしまったのだと思う。
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今年、縁があって、研究者としてだがIT企業の会社員になった。この選択に迷いがなかったと言えば嘘になる。自分の知る研究者としてのキャリアパスではなく、この新しい挑戦が良い方向に働くのかはわからない。ただ研究環境も、待遇も少なくとも大学で得られる(かもしれない)ポストより恵まれているように思え、上司や同僚になる人たちも好きで、この方向に賭けてみようと思って飛び込んだ。そのこと自体が、研究者として正解だったかはまだわからない、今は自分にとっても、受け入れてくれた会社や仲間にとっても正解にするために、とにかく精一杯頑張るしかないと思っている。

入社して、いちばん新鮮だったのが周囲の価値観だった。新しい挑戦や転職を通じて自分のキャリアプランをしっかり考え、自分の思い描く仕事や収入を自分自身の手で勝ち得ていこうと努力する人たち。それが悪いことでなく当たり前のこと、自分や家族の生き方と向き合うためのこととして行われている。自分は留学、院生生活を選択したことで、仕事に対するこういった態度に蓋をしてしまったのではないだろうか。確かに、自分では致し方ない研究環境やキャリアの問題があり、考えるだけつらいこともある。ただ、留学時にあれほど考えた自分はどれくらいの生活水準を送りたいのかという問題や、仕事をどういう風にしていきたいのか、社会とどう関わりたいのか、そう言ったことに対して思考停止し、ただ耐えて真摯に研究を続けていくことが素晴らしいことのように思うようになってしまっていたのではないかと思う。

自分がどう生きたいか。母の人生のオルタナティブストーリーでなく、安易な選択でなく、規範化された価値観ではなく、わたしはどう生きたいのか。もっと考えるべきだったと思うし、これからも考え続けなればならない。わたしの幸せはなんなのだろう。好きな仕事?収入?結婚?子供?自由?研究はとても好きだ、苦しいことも多いけど、何よりも関心のあること。けれども家族との関係、社会的ステータス、自分のプライドや意地、生きていくだけの収入の見通し、こういうものを天秤にかけて、本当に最優先事項なのか。最優先事項ではない、と言うこと自体がまるで研究への思い入れが足りない、研究をする資格を奪うように思ってしまってはないだろうか。

広い家に住みたい。好きな服が欲しい。旅行をしたい。この世界は、わたしたちの欲望を絶えずくすぐるようにできている。規範化された欲望もあるだろうし、それでもやっぱり自分が欲しいものもあるだろう。欲に駆られるのは良くないだろう、しかしながら、禁欲を美徳として酔いしれてはいないだろうか、無欲と思考停止は紙一重かもしれない。それが悪いと言いたいのではなく、自分を追い詰めてしまっているかもしれない、色々な選択肢を覆い隠してしまっていることが怖い。少なくともわたしはギリギリだった、こんな金銭的状況では猫も手放さなければならない、それならいっそ、、、と何度も考えていた。好きなこと、やりたいこと、欲しいこと、すべてに正しいも間違っているもない、挫折も成功も自分にとっての選択の意味で変わってくるのだろう。

結局は今、自分のやりたいことを生業に出来ているのだからと思われるかもしれないが、わたしもまだまだこの先、研究者を続けていけるのか、その不安は消えない。51歳でこの世を去った母のことを思うと、キャリアの選択はポストや金銭状況の問題だけではなく、健康の問題でもあるのだろう。そう遠くはなく、わたしにも改めて選択を迫られる日が来ると覚悟している、その時に備えなくてはならない。母のオルタナティブストーリーも、社会で作られたストーリーも、それは所詮他人のものだ。それを無意識に受け入れてしまいそうになる、受け入れてしまっていた自分と決別して、わたしはわたしだけのストーリーを模索しながら探している。
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藤嶋 陽子

藤嶋 陽子

研究者。
文化社会学・ファッション研究。
株式会社ZOZOテクノロジーズ(ZOZO研究所)・所属。東京大学学際情報学府博士過程・在籍。
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1988年山梨生まれ。フランス文学を学んだ後、ロンドン芸術大学セントラルセントマーチンズにてファッションデザインを学ぶ。帰国後はファッションにおける価値をつくるメカニズムに興味を持ち、研究としてファッションと向き合うように。現在は、ファッション領域での人工知能普及をめぐる議論や最先端テクノロジー研究開発にも携わるように。
26歳で35kgの大幅減量を経験、自己像や容姿との戦いは終わらない。猫2匹と同居中。

Reviewed by
藤坂鹿

一歩進むごとについさっきまでの足場は見えなくなり、本当にここに着地して良かったのか、不安になる。両足がつくことなどない。それでも歩くしか、ない。

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