2011年の東日本大震災で母方の祖父母が眠るお墓は津波で流されてしまった。たしか3・4年くらい前に手を入れてもらえたけれど、周囲には未だに瓦礫となった墓石があちこちに積み上がっている。
まぁ、正直なところその間、“お墓が流されてしまったこと”に関していえば、なんとも思わなかったのだけど。
そもそも祖父母とは、数えられるくらいしか会ったことがない。ふたりと過ごした時間の記憶はほんの少しで、どれもやさしい。けれど、ふたりの葬儀後に、お墓まいりに行ったことはない(気がする)。「お墓の前で手を合わせることに、なんの意味があるのだろう」なんて典型的な思春期っぽいことを、ほんの少し前まで思っていた(恥)。
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ここのところ、ちょっとだけ落ち込んでいた。どういうわけかなにも感じたくないし、なにもいいたくない。「アタシが喜ぼうが泣こうが、世界のほとんどの人にとってはどうでもいい」とか、また思春期みたいなことを考えていた。
そうやって鬱々と過ごす間にも、この夏は(距離感ほどまちまちなものの)、8人の友人の元に赤ちゃんが生まれた。赤ちゃんの周りには、喜びが溢れている。不意に「生まれてきてくれてありがとう」なんて、胸の真ん中あたりが、こう、オエェェってなりそうなことをいってしまいそうになる(でも、やっぱり「生まれてきてくれてありがとう」って思っている)。赤ちゃんの存在は、泣けるほどに尊いことは事実だ。
ああ、そうだ。32年前、アタシもこうやって生まれたんだ。7年と4年前、アタシにも子どもが生まれたんだった。アタシの世界はどこさ。矢野顕子の歌を歌いながら、「世界のほとんどの人」について考えることはやめることにした。
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2019年8月10日(土)。この日は、石巻できれいになった祖父母のお墓まいりをした。
相変わらず、お墓まいりのマナーなんて知らないし、お線香もなかったけれど、黄色い百合の花を持って行ったアタシはいつになく穏やかだった。
ただただ「いま在る」ことに感謝して、子どもが成長していることを報告して、手を合わせた。脳裏に寂聴さんの笑顔が浮かぶ。32歳にしてやっと思春期が終わった気がする(長ぇ……)。
アタシ、粛々と、静かにでも、生きなきゃぁね。