大学3年生になる前の春休み、私は運命の出会いをした。
同じサークルのF田に誘われて、先輩と3人で鍋パーティーをした。みんなの噂では最近失恋をしたばかりらしい、いっつもpaul smithを着て、赤いFITを乗り回している、車椅子の、石井誠という先輩。それから、頻繁に何度か遊んだりまた鍋をしたりして、大した駆け引きもなく、とても自然に私と石井誠は一緒に暮らすことになった。私にとっては初めてのお付き合いだったけど、当日にそのまま堪らず同棲し始めてしまった。
そこから彼が亡くなる日まで8年と半年、ずっとずっと一緒に暮らした。
私は心の拠り所を得て、なーんも恥ずかしいことはなかった。介護も要るからトイレも一緒にすれば、私たちはぼろぼろの姿でも気持ちでも何でも見せ合って暮らした。私たちは暮らすなかで一緒に成長したような気がしている。
私の父は、自分の部屋にも家業の事務所の机にも、幼稚園くらいの頃の私たち姉妹の写真を飾っている。ほんわり笑って、ストレートヘアとつぶらな瞳が、我ながら可愛い。
時々父は、「もーほんま、朋ちゃんはいっつも消防車の音で唇真っ青にして泣いて、こんなか弱い子ぉがほんまに大人になれるんやろかと、父さんいっつも心配やった」と言ってくる。今の私とのギャップにしみじみするように。
33歳になって、か弱さも可愛げもちょっとどっかに行ってしまって、社会人になったし、彼を看取ってそのあとも悩みながらもまあまあ自分で考えて逞しく過ごしている娘への父のつぶやき。
私はそれを聞くといつも、しみじみするにも中身が不器用で苦いやんなぁと思う。
誠と出会って暮らし始めるまでくらいの私はほんとうに父が言う通り、「大人になれなかった」のが辛かった。
中学、高校のころ、映画や美術館、雑誌だけが、私に開かれた大人の世界だった。
学校近くの現代美術館が最高に充実していて、草間彌生も会田誠もミロも魯山人も生で見ることができた。奔放なアートに私の中の息苦しさがその時だけでも解放されるような気がした。
田舎のレンタルビデオショップは土地が広いから、猛烈に品揃えがいい。今ネットでも見つからないようなレア作品も100円で借りることができた。
映画雑誌を読み漁り、最新作からマニアックな映画までを夜な夜な家族が寝静まった誰もいないリビングで、貪るように観ていた。
ソフィア・コッポラの描くキッチュな青春、鈴木清順の描く妖しい世界観。フィリップ・カウフマンの『存在の耐えられない軽さ』なんて、大胆で自由でもあり不自由と軽さとたたかう情熱的な愛憎が堪らなくて、観てしまった後の数日はぼーっとなってしまうくらいに魅了された。外国や異世界は遠くだから、憧れたり楽しめる。
でも岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』は、内容の衝撃よりも「おんなじ女子高生がなんでこんな可愛くて、自由で、大人なんだろう」という悲しさとむなしさがこみ上げた。ぜんぜん私にはリアルじゃなかった。
映画や雑誌の中の自由な大人の世界は私にとっては自分には訪れられない、こころの中だけの別世界。
校則厳しめの中高一貫校で、部活も学祭もなく、学校と塾の往復。恋愛とか青春できる気配もない。化粧したりやおしゃれをするのはとても怖くて無理な事だった。楽しいことをしたら何か良くないことがあるんじゃないかという強迫的な考えがつきまとったし、お母さんや先生に「そんな子だとは思わなかった」と言われるくらいなら、大人の言う物分かりのいい子でいたほうが傷つかずに済むという諦めもあった。
どんどん周りは大人っぽくなっていくのに、こころの中には素敵な世界がたくさん広がっているのに。
私は受験ストレスでぶくぶくになり、目はうつろになっていく。
「ださくてキモいな、私」。世界と自分との間に膜が張ったような感覚がずっとしていた。
塾の下の本屋さんでは、毎日ファッション雑誌を立ち読みした。
VOGUE、HARPER‘S BAZZER、装苑、STREET SNAP、NYLON。
手も届きそうにない、着れそうにもない素敵なかっこいいファッションを見る、のが大好きだった。家に帰って、授業中に、いろんな服をデザインしてこそこそ描いた。
だけど、毎日毎日あんなにたくさん描いた絵は、恥ずかしくて、いつも消すか捨ててしまって、1つも残っていない。
私はいつも、おしゃれなお母さんも褒めてくれるけど目立ちすぎない、グリーンやベージュや紺の安全な服を着て、
大学生になったら借りてやろうと「R18映画リスト」をつくって、
自由な世界に解放される日を待った。
2004年春、大学に入るため香川から大阪に出ることになった。
入学手続きの時になんばウォークのお店で、お母さんがパステルグリーンの膝上スカートとクローバー柄の薄手のブラウスを買ってくれた。安全な服しか持ってなかった当時の私にとっては気恥ずかしいくらい派手目な一張羅だったから嬉しかった。
でもやっぱり、ファッション雑誌の中のあこがれの服とは違った。その服を着て集合写真に写った私が、一人だけ中学生みたいで、やっぱりきもくてダサかったから、恥ずかしくて悲しかった。
初講義の日、近鉄電車から降りたたくさんの学生がなめらかに改札を通りぬけていく。
定期券を自動改札機に突っ込んで大丈夫なのかを知らなくて、惨めな気持ちで立ち往生した。人波がひいてから、駅員さんに教えもらい、やっと改札から出ることができた。
自転車を買って、タンポポ咲く大和川の河川敷をサイクリングしていたら前から走ってきたおっちゃんに「前見とんのかボケ~」と怒鳴られ、ギャグ漫画みたいにボロ泣きしながら走った。今だったら、「おっちゃんもやろ!」と心の中で突っ込むだけなのに。
実家から届いた日清のカップヌードルの作り方がわからない、洗濯機のボタンの使い方がわからない、放置した炊飯器のお米が緑色になってしまって、こんな事もできないなんてと自分に罪悪感を持ちながら蓋をしてまた放置した。
JJファッションや重ね着が流行ってたけど、自分は何を着ていけばいいかわからなくて大学を休んだりしていた。
あの頃の話を周りの人達にしてみると、みんな堂々とヒいてくれるか、爆笑してくれる。「え、そんな時があったん。このまえ私の父さん作ったキュウリあんなうまいこと料理してたやんか。」「わー私大学入った時そんな事は無かったし、自分今重曹なんか使こて、鬼みたいに家事するやん」。
今なら起こらないような、あっても忘れてしまうような、小さな小さなたくさんの出来事の記憶の奥に、「きもくてダサい」私が無表情で立っている。いまでも時々、慣れない場に行ったりや浮いてしまっているような気持ちになると、顔をのぞかせる。
こんなに我慢してきたのに、大人の話が分かるように頑張ってきたのに、自由になりたかったのに、生活に躓き、どこにも交われない私。
だから、こころの中に世界を広げるしかなかった、アートが大好きな私。
きもくてダサい私は、アートと自由が大好きな私だった。
この「きもくてダサい」という私は、苦しい時も消えたいほどのときも、そう、誠と死別してからの私の心も暮らしも助けてくれて、たくさんの美しい場所に連れて行ってくれた。
「きもくてダサい」私は成長して居なくなったんじゃなくて、本当は私の一番コアなもう一度これからの私の人生に堂々と取り戻したい私だということを思い出した。美しいものをたくさん見て、素敵な映画のいろんな人生をとっても深く味わうことができて、絵がどんどん湧き上がってきて、音楽に没入することができる、感性がピカピカの私。世界は恐怖だけじゃなくって、とても言葉では表せないほど深遠で美しいということを知らせてくれて、私を生かしてくれた私。
世界は狭かったけれど、その私が広げてくれたこころの中の世界は、砂漠も深海も太古の昔も、知らない天体も思い描けるほどに無限に広い。
もう一度、一緒に生きたい、もう描いた絵も捨てなくていいし、美しいものを求めて、やりたい事を素直にしてみたい。今度は、本当の世界で堂々とできるように。
もし誰かが何か言ってきたら、泣きながらここに書いたことを思い出そう。
私だけのピカピカの感性の塊、自分を「きもくてダサい」とか言っちゃう私。
あの時、きもくてダサい私は、現実世界の忙しさに、影を潜めていった
学部にもいまいちなじめずに、サークルとバイトには辛うじて行っているような生活をしながらも、親友もでき、学祭や合宿があったり、後輩のバイクに2ケツしたり、バイト先で恋をしたり、いままでできなかったことが私にもできるような自由が現れてきた。そして誠と出会った。
でも誠と絵だった時に直感したことは、あの私の才能だと思ったから、ちょっと書きたい。
高校生の時に『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001)という映画を観た。その中の楽曲に、『ORIGIN OF LOVE』という、ざっくりいうと天地創造と愛がテーマの曲がある。その歌詞の中、「月の子供たち」というくだり、『Were like a fork shoved on a spoon/They were part sun,part earth/ Part daughter,part son.(それから月の子供たち ちょうどスプーンに挿したフォークみたいで、はんぶん太陽、はんぶん地球、はんぶん娘ではんぶん息子)』。
私はそのイメージがとても好きなのだけれど、誠とはもともと1個だった様な、そんな気が今でもしている。
なんだか大げさかもしれないけれど、そのくらいくっついてしまって離れられないような、一緒に居ないことがあり得ないような感じだった。
次は、そんな誠と暮らした時間を、言葉にしていきたいとおもっている。