誠とのことについて思い出そうとすると、呆然となる自分がいる。
もの凄いたくさんのことがあるのに、頭の中にロールスクリーンがたくさん張られているようで、もどかしくて辿りづらい。
けれど、苦労しても思い出すことが出来ないのに、音楽を聴いていると唐突に感情、光景、香りまで脳内に蘇ってくることがある。時々、思い出したくないことまで思い出されてしまって、慌ててて曲をスキップさせる。
音楽だけではない。香りや、景色も。いろいろな日常のものがトリガーになって、鮮明に、何の心の準備もないまま記憶が溢れ出す。
そうして思い出された記憶のほとんどは、エピソードとしてもつづれないほど小さい。
それなのに色も匂いも手触りもはっきりとしている。
そうして思い出された、いろんな彩の大切な断片を拾う。
書き表せることは限られているけれど、景色や出来事に張り付いた、音や色やにおいはとてつもなく、大切だと思う。
時々、知らなかったことも教えてくれる。
北海道の八雲という町に、筋ジストロフィーの呼吸器ケアが得意な病院がある。函館を列車で2時間弱ほど北上した、太平洋側のにある小さな街。
2009年ごろから、どうしてもそこの病院での治療を頼り、年何回も入院した。
病院では、呼吸器の吐く息と吸う息のバランスや強さの調節をしたり、車いすに手を加えたりして、超絶技巧のような微調整を1か月以上かけて行う。体重が増えたり、呼吸が楽になったりして、いつも少し体力を取り戻して戻ってくることが出来る。
2013年のクリスマスからも、また八雲に行くことになった。この時は、それまでのメンテナンスのような入院とは違った。体調が良くなるのかを期待できるかわからない入院だったし、移動にも呼吸器だけじゃなくて酸素ボンベを10本近く持ってのぎりぎりの旅だった。あの時の道のりと、それまで何度も見た景色とが入り混じって脳裏に焼き付いている。
まだ雪がない秋の東北の、針葉樹の隙間からチカチカ差し込む柔らかい夕陽。
青函トンネルの底では電車がいつもと停車する。真っ暗で土臭いトンネル脇からは、街があるみたいに避難路のオレンジの光が漏れている。
函館にある灰色の軍艦みたいな巨大なコンビナートを通り過ぎて、八雲までは海辺にススキの景色が長い。窓には車内が映るだけになってくる。お菓子をたべて、誠はジュースをのみながら携帯をいじって、居眠りをしてもなかなか着かない。二人ともだんだん無口で機嫌が悪くなってくる。木造の八雲駅に降りて、予約しておいた介護タクシーに乗る。まっすぐな白い道の先に病院とコンビニが明るく光っている。
消灯した病棟までの長い暗い廊下はオイルヒーターで空気がぬるくて、いつもの石鹸の芳香剤がただよっている。廊下の行き止まり、第3病棟の6畳くらいのいつもの個室。
2014年のお正月休みは、病院で二人で過ごした。
病院玄関の外に雪を見に出てみたり、ただのんびりと。
時々、年明けの神戸と京都での個展2つに向けて制作をしたりもした。
でも、苦しくて長い5か月ほどの入院になった。
一人でベッドの上で過ごす時間が長くなっていた。
前みたいに、すこし旅行気分で先生たちと時間外に遊びや飲みに出かけたりすることもできない。治療が進まない焦りのなか、一日中ipadと天井をみて過ごす日も多くなっていた。誠の体力だけでなく、笑いや、自信や、話をする気力が減っていっていることが目に見えてわかった。さらに、命の危険を感じる様な呼吸器や酸素のトラブルが何度かあったし、ご飯が喉に詰まることもあり得ることが常にこころから離れない。毎日、私が仕事が終わって帰ったらfacetimeを付けっぱなしにして、できるだけ顔を見合って過ごしていた。
ちょっと前からLCCがたくさん出始めて、飛行時間は1時間と少し。それでも冬は特に、雪で引き返したり遅延も多くて、八雲駅行きの列車も本数は多くない。八雲に向かう当日になっても、ひやひやしながら病院に向かった。
病棟の個室に着くと毎回、もうこの上なく安堵して幸せな気持ちになった。
2014年2月に入ったころ、2週間ぶりくらいに、八雲に行ったら、誠が聴いたことない曲を聴いていた。
誰の曲?と聞くと「吉井さん。」という。THE YELLOW MONKEYの吉井和哉。私が好きだから、誠もよく一緒にライブに行ったりして、いつも新曲やDVDを買ってくるのは誠だった。
〈行かなきゃ 僕はいつか行かなきゃ
/一人かい僕はずっと一人かい 光が消えないうちに
もはや生きるべきか 死ぬべきなのか
震えるな MY FOOLISH HEART
/ごめんなさい そばで見守れなくて
同じさ僕はね同じさ 想いが冷めないうちに
決して なげだすものか 逃げ出すものか
聞こえるか MY FOOLISH HEART
怯えるな MY FOOLISH HEART〉
作詞:kazuya Yoshii 『MY FOOLISH HEART』一部引用
歌詞が、滑稽なくらい、私たちに当てはまり過ぎていた。私は、早く曲が終わるのを待った。
誠はそれからも時々、繰り返しその曲を聴いていた。
私はそのたび泣くのも怖くて、イライラして、聴いてほしくないとおもった。
私がこの曲をちゃんと聞くことが出来たのは本当に最近になってからだ。
二人きりの時に時々、私はじっと誠を見ながら「これが終わる瞬間が来るんだ」といつかを思い描いた。
「目の前のこの人が今何を感じて考えているかは絶対にわからないんだな」と考えてみたりもした。
そうすると、宇宙の果てを想像するような、圧倒的な孤独感が浮かんでくる。でも、いつもそう思っても何かになるわけではなかった。
誠が居なくなったら生活の全てがなくなって私は何かとても空っぽになるんだろうなという恐れはかなりはっきり抱いていた。そしてそれを打ち消したくて、こんなにも近すぎる関係は、きっと共依存で、共依存はダメなんじゃないかとも繰り返し疑ってみたりした。
誠が北野病院に入院しているときは、仕事を終えたら電車で病院に向かった。誠が病院に行くときはいつも救急車か車だったから、私が何百回と通ったあの電車での道を、誠は一度も通ったことが無い。行く途中で、コンビニや天六の商店街、週末は梅田のデパ地下まで行って、咽せにくそうで誠が好きそうなお惣菜を買う。私が好きなスイーツも少し買う。いつもおばちゃんが作っておいてくれている煮物とかもあって、病院食と併せるといつもベッドサイドにいっぱいのディナーができる。夕食を一緒に食べる。喋ったり、着替えたり、テレビ見たり。後ろ髪をひかれるような気持ちでもたもたして、終電ギリギリで帰る。
家までの1時間弱、病院独特のこもった空気を抜けて、明るい満員の環状線に乗ると、いつも誠を病院に残した心配と罪悪感が寄せ合った。
でも少し、死を感じさせない世界に交じって安堵する自分もいた。
あと、誰にも話をしたことが無かったことの記憶。
自宅で、介護者もヘルパーさんもいなくて二人になった朝の時間帯だった。
2014年の秋ぐらいだった。
「俺、年を越せへんとおもう」
誠があんなにはっきりと、落ち着いて、自分の余命についての感覚を自分の口から話したのは1回だけだった。
なんで、と聞くと、「体が、そんなかんじがする」というようなことを言ったと思う。
私は、いくら病状が厳しくなってきているとはいえ、正直に私のその時の感覚として、年を越せないことはないと感じていた。そして「そんなん言わんとってよ、」といって泣いて、そのあと何も言えなかった。
時間になって、ヘルパーさんが来た。
書道家の誠の作品のテーマはいつでも『生と死』だった。もう数えきれないほどの作品にたくさん生と死を書いていた。
私たちは、毎日毎日、心の中で誠の命の期限を感じながら生きてきた。
私は誠が死ぬことが怖かった。
同時に、誠が居ない世界に生きなければいけないことが怖かった。
そして
私は、誠がその時にどんな風に恐れていたかも知ったつもりになっていた。
あの時、誠が聴く横でいつもみたいに一緒に「吉井さん」を聴くことができなかった。
後悔でも、悲しみだけでもなく、この思いを何と名付けていいのかが私には解らない。
また新しく、誠の表情や感覚と一緒に、記憶として大切に心に包みたいともおもう。
それから、余命宣告があった。
一番年下の妹の20歳のお誕生日だったから、私にしては珍しく日まで覚えている。
つづく