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2F/当番ノート

「境界線」の不思議

当番ノート 第49期

自分とそれ以外の境界線、あるいは自分というなにかの輪郭について。

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自分と他人のふたつが別々の存在であることは、たいへん明快な真実だ。他人は自分と別の体を持ち、自分とは別の心で思い、考えている。自分の体の調子や気持ちが自分にしかわからないように、他人の調子や気持ちもその人にしかわからない。どんなに近しい存在、生みの親や、愛する人だとしても、彼らは自分とは異なる存在である。

では、他人という表現をもう少し拡げて、「それ以外」としてみよう。

多くの人は、生きていることについて「自分とそれ以外」という認識を持つ。「自分」以外のすべてが「自分」ではない「それ以外」であると、あたりまえのように思っている。いま、ここにある自分を起点に、それ以外のすべてがここから覗かれ、感受される。だから自然と、このふたつは明確な境界線で区切られているように感じられる。

しかし、区切られた「自分」は、はたして、何をもって「それ以外」と区切られるのだろうか。そもそも、このふたつを区切ってわけることは、ほんとうに可能なのだろうか。

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たとえば、本を読み終えたとき、これまで見えていなかったものが少し見えるようになっている。尊敬する人から言葉を受け取って、視界が開けたように感じる。それを知る前と後では世界の見え方が異なるという経験は、誰しも日常的にあるものだ。

あるいは、もっと身近なところで考えてみてもいい。好み、癖、所作。見える、感じる景色をどう受け取ってどう消化し、どのようにふるまうか。 一緒に過ごしている人や環境はもちろん、幼い頃の教育やこれまで付き合ってきた人びとの影響を多大に受け続け、「自分」は日々わずかずつ更新され続けてきた。

「自分」と「それ以外」は毎秒交わり続ける。意識される、されないに関わらず、相互作用を引き起こしている。言い換えれば、自分が「自分」と思っているこのなにかは、あらゆる「それ以外」のつながりのなかに生みおとされ、刻々と生みなおされ続ける。同時に、「それ以外」もまた「自分」を分け与えられているのだ。

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「自分」と「それ以外」は異なってそれぞれ存在しているということは、真実である。けれども、「異なって存在していること」と「異なるなにかであること」は、明確に違う。

自分がある。ここから「それ以外」を感受する。だからなのか、「自分」というものは、「それ以外」とはまったく異なるなにかであると思い込んでいる人がとても多い。まるで「自分」が「それ以外」の対義語であるかのような。明確に線引きされ、ここにある自分は自分であって、「それ以外」とは切り離され、独立して存在しているかのような。

最近、よりもずっと前、ソーシャルコミュニケーションが普及した頃から、「自分が」「自分は」という語り口でなにかを言いたがる人が、それ以前よりもずっと見えるようになった。自分がどれほど優秀か、自分がどれほど「それ以外」と違う人間であるか、自分がどれほど不幸でみじめであるか。

インターネットのせいで自我が肥大したなどとよく聞くが、別にインターネットのせいではない。人はもともと、「自分」は「それ以外」とは明確に異なる、確固たる自己である、という自我を強く持ちがちで、それがソーシャルコミュニケーションの発達により見えやすくなっただけだと思う。

ではいったい、そこで指示される「自分」とは、何なのか。「それ以外」と区切られた「自分」というものは、ほんとうに存在するのだろうか。

血のにじむような努力をした。賢くてセンスがある。生まれながらに障害を持っている。それが一体何だというのだろう。そうした特徴が「それ以外」と「自分」を分ける境界線になりうるだろうか。過去や性質などは、確かにその人のひとつの側面ではある。けれどもそれは「その人自身」、つまり「自分」ではない。

ここに自分の体がある。けれどもこれは自分の体であって、「自分」ではない。肉体の物質的な境界線のみによって「自分」と「それ以外」を分けることも不可能だ。「自分」は自分の体だけでなく、「それ以外」とのあいだに生みなおされ続けるものによっても成り立っているからである。

さて、皆さんの言う「自分」とは、いったい何なのか。どこまでも、果てることのない問いである。

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自我、つまり「自分は自分という絶対の境界線を持つ自己である」という認識が強くなると、「それ以外」のすべてが敵か味方のどちらかになる。自我に対してプラスにはたらくものは味方、マイナスにはたらくものは敵。この敵と味方は相対的なものであって、時と場合によっては味方が敵に、敵が味方になることもある。

しかし、そのように相対的な世界は、ほんとうに自分が生きている世界と言えるだろうか。

「それ以外」のすべてが、自分の敵になってしまったとしたら、はたして生きていけるだろうか。家族も、友達も、組織も、社会も、誰もかれもが敵となったら、自分の居場所はどんどん狭くなる。それでも唯一自分が自分の味方となれればよいが、なれなかったとき、人は駅のホームから、高層ビルの屋上から、跳ぶこともある。

反対に、すべてが味方になったとしても、はたして生きていけるだろうか。ほんとうの正しさについて問うことを忘れ、「自分(とその味方)」たちの正しさをほんとうの正しさだと思い違えたとき、人の精神は死ぬ。見誤らずに、生きていけるだろうか。味方による連帯が精神を殺し、多くの人々に道を踏み外させてしまった例は、歴史を振り返っても枚挙にいとまがない。

絶対の境界線で区切ることが、知らず知らずのうちに「自分」を苦しめることだとしたら。それを知らないままに、区切ったこの内側のみだけが絶対だと信じていたら。そんな世界がほんとうの世界だと思ったまま死ぬなんて、もったいないことだと思わないか。

***

不思議なことに、自分が自分であるという意識は、どこまでも失われることがない。どんな目に遭っても、どんな人に出会っても、考えや価値観が変わろうとも、自分はこれが自分であるという意識は保たれ続けている。土星の環のように、絶えず揺れ動く輪郭。この輪郭のどこまでが、自分といえるだろうか。

「自分」というなにかは、言葉によってのみ成り立つ観念である。触れられるものでも、見えるものでもなく、交わり揺れ動き生みなおされ続けるからこそ、「これが自分である」と指し示しすことはできない。

なのに、いる。ここにいる。

はたして、「自分」はどこにどう存在しているのか。

Reviewed by
haru

「自分」と「それ以外」、それは何をもって区切られていくものなのだろう。
「自分」だけを見つめるとき、果たしてそれは本当に正しいことなのだろうか。
今を生きる人々の在り方を、丁寧な言葉で紡いでいます。

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