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2F/当番ノート

「責任」の不思議

当番ノート 第49期

責任って、重くて暗い立方体みたいな気がしない?

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責任を感じる。責任がある。責任を持とう。責任を取るべきだ。

社会人になる以前から「大人になったら自分のすることすべてに責任を持たなくてはならないよ」と聞かされて育ってきたけれども肝心の「責任とは何か」について、誰も教えてはくれなかった。

責任がネガティブな意味で問われる場面を断片的に経験しただけで、責任のことをよく知らないままに大人になった。しかし日常で責任を感じる瞬間というのは、間違いなくある。わたしは、あの胸の締まるような感覚があまり得意じゃない。

責任には「嫌なもの」「大変なもの」というイメージがつきまとう。歯を食いしばって背負わねばならない、重たいもの。しかし責任は、物質として重みを持つものではない。重さどころか影も形もないそれを、どうしてわたしたちは「重い」と感じるのだろう。

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他人が責任を取るよう求められる場面や、「責任、取れるの?」などと訊かれた場面は多々思い出せる。なのに、責任とは何かを真正面から考えようとすると、意外なほどにむずかしい。それはおそらく、責任というものがわたしたちのものすごく近く深いところにあるものだからかもしれない。

ひとまず、「責任を取る」という具体的なことから考えてみよう。

責任を取るとは、責任の務めの対象がどんな状態になろうとも、徹底的に付き合いきることを意味する。良いときも、悪いときも。悪くなっても見放さない。積極的によくしていくか、時間をかけて悪い状態に付き合うか。

しかし、上辺だけでそれと付き合うことは、ほんとうの意味でそれに対して責任をとっているとは言えない。頭は下げても少しも自分が悪いと思っていない人が謝罪をしていないのと同じように。

責任がほんとうの意味で果たされるには、対象への能動的な働きかけや寄りそいが必要になる。つまり、責任とは本来、誰かから強制されるものではなく、個々人の内側から自然と生じるものであるはずだ。能動とは「そうせずにはいられない」ということであり、責任が能動的な働きかけと不可分ということは、責任とは自ら「取らずにはいられない」はずのものなのだから。

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誰かの人生を引き受けると決める。自分の意志で進路を決める。責任が生じるところの多くには、自らの選択がある。人はなぜ、何かを選ぶことができるのだろう。

他人への責任が生まれる道を選ぶのは、その相手が自分に信頼を寄せてくれたと感じるときだ。あなたなら、あなただからこそ、という信頼を寄せられ、それに応えたいと思うとき、内側から責任が自ずと生まれる。信頼されるよろこび。この人の信頼を裏切るまいという自分への信頼。責任は、ここにある。

自分に対して引き受ける責任も同様だ。自分にかかわることを選ぶとき、人はそれを選ぶ自分に信頼を寄せている。信頼しているからこそ、選ぶことができる。自分ならきっとこの選択を全うできる。結果がいかなるものでも、結果とそれを選んだ自身を受け入れられる。そんな信頼が、選択の裏側にある。

信頼に応えたいという思い。応えられるはずという自分への信頼。これが責任の正体ではないだろうか。だから、それはどうしたってとらざるを得ないものなのだ。責任はだれから降ってくるものでもなく、わたしだけのものなのだから。

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愛が強制されえないのと同じように、責任は強制されえない。それは内側からほとばしる。けれども社会を作るうえで、わたしたちは「責任」に形を与えてしまった。「相手の信頼に応えたい」「約束を守りたい」という内発的な思いとしてしか存在し得ないものを、「相手の信頼には応えるべきだ」「約束は守るべきだ」という強制へと変えてしまったのだ。

「こうありたい」という内側からの思いであるべきはずのものが、「こうあるべき」という周りからの押し付けになってしまったら、それが重たくなるのは言うまでもない。「こうあるべき」は「そうではない」自分を許さない。「なぜそうなのか」を問うことすら許されない。

責任の本来の意味を、わたしたちはいま一度思い出さなくてはならない。自ら取らざるを得ない責任ではない、ただの形として与えられる強制が、どうして真の責任であるはずだろうか。

責任を全うすることは、気高い。信頼に応えたいという真摯さにしか、責任は起こりえない。もし、責任を「取るべき」場面で責任を感じないのであれば、強制に従うより前に、自分の心そのものを見つめなおす必要がある。責任を感じられるほどに自身の倫理を磨くことができたとき、責任は、自ずと滋味深い喜びとなるのではないだろうか。

Reviewed by
haru

「責任」とは何だろう。
常につきまとう「責任」とは、どのような形をしているのだろう。
簡単に使ってしまいがちな「責任」を、今一度見つめ直す必要がある。
本当に大事なのは、どんな「責任」なのだろうか。

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