「みんなと違って個性的」って、生まれた瞬間から、あなたは他の誰でもない。
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「個性的だね」とときどき言われると、どう反応していいかわからない。「どういうこと?」と訊き返すと、「他の人とは違う」とか「大勢の人々とは違う方向を行っている」とか「平凡じゃない」みたいな言葉が返ってくる。
わたしは他の誰とも違う存在である。その言葉をわたしに投げかけているその人だって、同じく他の誰とも違う。「大勢」のそれぞれは異なった存在であり、一見「平凡な」選択をしているように見える彼らは、一人ひとりの物語を背負っている。そもそも、生きている人の数の分だけある生を均(なら)して平だの凡だのと言うこと自体が不可能ではないか。
わたしがわたしを生きていることは、それだけでひとつの個性であり、同様にそれは他のすべての人たちにも言えることである。
「個性的」という言葉で表される以前に、わたしたちは個性的でしかありえない。誰もが生まれ落ちたその瞬間から比較不可能な個として生きるのだから。それゆえ、「個性的」という言葉を向けられると、どう応えていいかわからない。
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「個性」が何か特別ですごいことのように崇められるようになったのは、いつ頃からなのだろう。いや、正しくは、「個性」というものが手垢をつけられ、個性以上の過剰な意味を帯び始めたのは。それは、わたしたちひとりひとりが生まれながらに異なる存在であることや、生を均して較べるなどできないということを、人々が忘れ始めた頃と一致しているのではなかろうか。
「他の人と違っていたい」と、「個性」を崇拝する人はそう思うらしい。けれども、あなたが他の人の誰とも違っていることを、違っていないことなどできないことを、なぜ思い出せないのか。
「個性」「自分らしさ」とは「他人と違うこと」を意味すると焚きつけられたときから、これらの言葉は本来の意味を見失い始めた。目指さずとも既に前提であるはずのそれらが見落とされ、自分は個性に乏しい人間だと勘違いをした人が、「個性」なるものを自分の外側に探し始めた。「自分探し」という言葉は、その勘違いの象徴である。自分は他の人とは違うという証明のためだけに絞りだされた「個性」は、どれもおそろしくつまらなく、空寒い。
あなたは、ここにいる。なのになぜ、自分の外側に「個性」「自分らしさ」を探そうとするのか。
為すべきは「他の人と違って在ること」ではなく、他の人と違ってしか在りえない自分について深く知り考えることである。
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あなたは、ここにいる。ならば問うしかない。なぜ、と。
何が好きで何が嫌いか。何をよしとし何を悪とするのか。何を美しいと感じ、何に悲しみ、何を愛し、何を憎むか。どう生きていたいか。よくよく自分の心に付き合ってみると、それはいろいろなことを教えてくれる。その声はあなたを奥へ奥へといざなっていく。
声はすぐには聞こえてこない。はじめはあまりにも表面的で不確かなことばかり喋っている。漠とした不安。誰かの受け売り。しかし時間をかけてゆっくり問い続けると、放言の土砂に埋もれたその下、ほんとうのことを心はしゃべり始める。そこにこそ、あなたの個性なるものへ通ずる道が隠されている。
心が喋るほんとうのことは、磨かれる前の宝石である。ほんとうのことを聴けるようになったら、とことん問うて対話してみるといい。「なぜ」と。原石、すなわち直感は、生きてきた時間にかならず裏打ちされている。これまで生きてきた時間を深く潜りかえし、「なぜ」の答えを見つけたとき、ほんとうのことはあなたの道を照らすほどの輝きを放つようになる。そのときあなたは、自分の個性なるものに、きっと気がつくことだろう。他人と比較が不可能な、どころか、なんの尺度や評価にも縛られることのない生の鮮烈な輝きを、全身で味わうだろう。