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2F/当番ノート

13月のカレンダー /エチオピア−東京

当番ノート 第53期

小学校5年生のときだったか、国語の授業でリレー小説を書かされた。4人か5人くらいの班の中で回して書いていくかたちだった。あるときからそれは僕にとって忘れたい過去だった。実際、今では自分が書いた内容は忘れ去ってしまった。

僕が第一走者になった物語は「何を書けば良いのかわからない」と同じ班のクラスメートに言われた。独りよがりな設定でリレーが繋がらず、殆ど一人で書いた。6年生の卒業前、学校の図書館の衆目の及ぶ場所にあったその提出物を、人目を憚り持ち帰って入念に千切り捨てた。

リレー小説のルールは、第一走者がタイトルと冒頭を決めて、班の他の走者と協力してその続きを書いていく。第一走者は、残りの走者の想像力が膨らむよう心がける必要がある。僕はそうした先生からの指導に従わなかったのか、従えなかったのか。

他の班で回されていた小説に「13月のカレンダー」というタイトルのものがあった。そのタイトルを見て、僕は自分の想像力の無さに落胆した。存在しない「13月」という、誰にもわかりやすく、妄想を喚起するタイトル。身近な現実から少しはみ出して、ファンタジーを生み出す想像力。自分にはとても思いつかないと思ったのだった。

「13月のカレンダー」はどんな物語だったのだろう。確か、表紙には雪だるまと、クリスマスツリーと、冬の屋内の様子が描かれていた。表紙はリレー小説が完成した後に第一走者が描くことになっていたと思う。冬、12月の後ろに訪れる幻の月。僕は決してその完成した冊子を開いて読むことはしなかった。悔しかったのかなんなのか。子供心に、そのタイトルと表紙にワクワクしながら。

「エチオピアでは1カ月は30日。だから、12月の後に5日か6日だけの13月があります。」

西暦2020年8月30日の東京。エチオピアの「コーヒーセレモニー」を紹介するイベントの最中、コーヒー支度の横で、エチオピアの基礎知識についてのレクチャーが行われていた。日本歴が長いエチオピア出身の講師による全編日本語のレクチャーだ。

「コーヒーはエチオピア発祥と言われています。人類発祥の地なんだから、いろいろ人類初めてのことがあってもおかしくないということですね。」

「コーヒーセレモニー」は、エチオピアの家庭で客人をもてなす際に行われる伝統的なコーヒーの淹れ方だ。生豆をから油が浮いてくるまでしっかり炒り、鉢ですり潰し、煮出すまでの工程を全て手作業で丁寧に行う。その流儀は曰く「日本の茶道にも通じる」ものらしい。エチオピアの家庭では、この「コーヒーセレモニー」は女性の仕事とされていて、その手順を学ぶのは花嫁修業の一つということだが、しっかり硬くなるまで炒った豆を木の棒で細かく潰す作業は結構な労働である。講師から「ぜひ体験してみて」と勧められて、男女4人が汗を滲ませるまでゴリゴリとすり潰しても、「まだまだだね」と首を振られる。

「エチオピアでも、焙煎の香りだけ楽しんで、豆を挽くときは機械を使う人もいます。」

すりつぶされた豆は、ジャバナという首の長い急須にいれられて煮立たせられる。何度かカップに注いで色味を確認しては戻し、を繰り返した後、振舞われたコーヒーの色は艶のある深い黒色していた。

「地域によってコーヒーにハーブを入れたり、塩を入れたり、バターを入れたりします。今日はヘバ・アダムを用意したので、浸して味の変化を楽しんでください。」

コーヒーの中に、その野草のような素朴な見た目の草を投入することには抵抗を禁じ得なかったが、慎重にチャプチャプ浸して飲んでみると、浸す前のしっかりとした苦みと渋みを伴ったコーヒーの輪郭が、絵具でぼかしをかけられたように少し渾然として、まろやかになっている。草っぽい、青臭い風味は感じない。

続けて、さっき煮出した豆から二番煎じを淹れてもらう。今度はエチオピアの岩塩で濯いだコーヒーだ。

「コーヒーというより、コーヒー・スープという感じでしょう?」

飲んだ瞬間に「おいしい!」と声を上げてしまったその飲み物は、言われた通りの未知の味だった。香りはコーヒー。でもコンソメスープのような、冬の食卓に並びそうなやわらかい味がする。

コーヒーセレモニーが終わり、続けてエチオピア料理が用意されるまでの間、講師への質問タイムになった。

「もうすぐお正月ですが、何か特別なコーヒーの飲み方があったりするんですか?」

この日はエチオピア暦2012年12月26日。あと10日で新年を迎えるところだった。

「コーヒーの飲み方として、お正月だから特別に、と言うものは無いと思います。エチオピアでは13月の5日間はお休みになって、お正月にはお祭りをします。日本でもエチオピアから来ている人が集まって新年のお祭りをしますね。」

「皆さん、エチオピアに帰省したりは?」

「もちろん帰省する人もいますが、今年はできないですね。」

「日本でも皆さんエチオピアの暦に従って生活しているんですか?13月の間はお休み?」

「なかなかそういうわけにはいきませんね。みんなエチオピアの暦のことは大切にしているけれど。」

「13月のカレンダーはどうなっているんです?月めくりだと、5日だけ書かれているんですか?」

「12月の下に一緒に書いてあったり、工夫されていますね。」

「へえー、欲しいなあエチオピアのカレンダー。」

「インテリアに飾るだけでも良いかもしれませんね。文字も独特ですし。」

「でも、日本にいてエチオピアのカレンダーなんて手に入るんですか?」

ああー、そう言われれば、と淀みなく質問に答えていた講師の目が宙を泳ぐ。

「それは、飛行機で持ってこないとダメですね。日本では売ってないんじゃないかな。」

「13月のカレンダー」は実在しているらしい。

実のところ、かつて、1年を12カ月とし4年に一度閏日があるグレゴリオ暦が普及するまで、13番目の月が訪れる暦は世界中に存在していて、日本でもまだ天保暦だった明治3年は閏月が入って13カ月あった。しかしそれから150年間、日本に13月は訪れていない。

小学5年生だった「13月のカレンダー」の作者の彼は、13月が実在することを、あるいはしていたことを知っていただろうか?いや、知っていたら13月をテーマに物語を書こうとは思わなかっただろうか?

エチオピアの13月はグレゴリオ暦では9月の第2週だし、日本の最後の「13番目の月」は10月と11月の間に挿入された「閏10月」であって、12月の後にやってきたわけじゃない。冬の12月の後ろの13月という「13月のカレンダー」の想像力にとっては躓きになるような事実だ。

むしろ色白で、恰幅の良かった彼が、小学生の頃胸躍ったクリスマスから年末にかけてのあの時間を延長させる幻想を生んだことは、妙に説得力がある。僕が通った小学校の男子の制服は年中半ズボンだった。冬の朝はみんな毎日膝をわななかせて通学しなければいけないから、そんな季節がひと月も伸びることは誰も望まなかっただろう。「おれは寒くない!」と豪語していた彼を除いては。13月は、彼のための季節だった。

 

それにしても今年は、日本にこうして現存している13月にとって受難だ。誰もエチオピアに帰省することが叶わず、日本の厳しい残暑の中で13月と新年を迎えなければならない。

エチオピアの首都アディスアベバは、赤道直下だけれど標高が高いため東京よりも過ごしやすい気候らしい。新年は冷期の終わりと共に春が訪れ、アディアベバ(=「新しい花」)という黄色い花が野を黄色く染める。

日本の13月には春の兆しを感じることもできず、2013年の13カ月のカレンダーを手に入れることも叶わない。新年のお祝いも、賑やかにできるのかどうか…

 

コーヒーに続けて振る舞われたエチオピア料理は、これまで体験したことがない味だった。酸味のあるクレープで「雑巾のような見た目をした」と形容されることもあるインジェラ、レンズ豆や牛肉のカレーのようなソース、乾燥した桑の実、そのほかの色鮮やかな不思議な味のソース。

手でインジェラ越しにソースをつまんで食べる、というエチオピアの食事作法に参加者が苦戦している間、講師がエチオピアの音楽をかけてくれた。恐らく現地の楽器を使った、穏やかなヒーリングミュージックのようでありながら、所々祭囃子のようなこぶしが入るメロディ。

「エチオピアで日本の演歌が聴かれている、という話は本当ですか?」

「ええ!聴かれていますよ!」

以前、テレビでそんな話をしているのを見た。エチオピアの伝統的な音楽のスタイル”Tizita”に演歌と共通したメロディがあること。朝鮮戦争のとき日本に滞在したエチオピア人の作曲家が日本の音楽にインスピレーションを得て作った歌が、エチオピアで大ヒットしたこと。そしてエチオピアのタクシーで演歌が流れていること。講師の口ぶりからして、誇張された噂でもなく本当のことだったのだ。

帰り道に新鮮な気持ちでお気に入りのエチオピア歌謡を聴いてみる。

戦後から、帝政が廃止されて社会主義体制に入る70年代までの間、アディスアベバの夜の街には”Tizita”のような土着の音楽とジャズやファンクが融合した独特の音楽があった。社会主義体制下で、こうした音楽が育まれる場は一度失われてしまうが、90年代にフランス人のプロデューサーにより「再発見」されたことで、60〜70年代はエチオピア音楽の「黄金時代」として世界中に知られるようになった。

アムハラ語の歌詞の意味なんて、これまで気にしたことはなかったけれど、イベントの最後に「ありがとう」は「アメセグナレウ(አመሰግናለሁ)」だって人生で初めてアムハラ語を学んだし、何を歌っているのか調べてみよう。

「ተመለስ(テメレス)」は1972年に出されたシングルだ。男声パートを歌うዓለማየሁ እሸቴ (Alemayehu Eshete)は「エチオピアのエルヴィス」と呼ばれるエチオピア歌謡のレジェンドということもあってか、ディスコグラフィ全体を英訳している文献がある。曰く曲のタイトル“ተመለስ”は”Come back”という意味らしいのだが、残念ながら、歌詞全体の英訳はない。

“ተመለስ, ተመለስ, ተመለስ……”

 

いったいどこへ帰れと歌っているのだろう?望郷の歌なのか、悲恋の歌なのか。そういえば僕自身もまた、この夏、帰ろうとしていた故郷に帰ることがないままに、季節が変わっていく。

12月には帰ることができるだろうか。狂った2020-2021年のカレンダーを見ながら、コロナ対策で延長されるかもしれない年始休みの過ごし方を想像する。

Kazuki Ueda

Kazuki Ueda

市井の音楽愛好家。
八代生まれ熊本育ち。
母方はメロン、父方はワイン。時々映画、頻繁に美術。

Reviewed by
もりやみほ

小学生のころに書いたリレー小説で、「13月のカレンダー」と名付けられたその想像力に、嫉妬にも近い思いを抱いたUedaさん。存在しない「13月のカレンダー」は、記事を読む私も内容が知りたくなるような、魅力的なタイトルだなと思った。

けれど今年に入って、「13月」はエチオピアにも存在することを知ったという。ファンタジーの世界だと思っていた13月が、海を隔てた地で確かに存在するのだ。

世界を知るとは、こういうことなのだろうなと思う。「まさか」「嘘だろう」と思うことが、当たり前のように存在する。どちらが正しいとも間違いだともなく、それらはただ「ある」ということを実感する。想像もつかない“当たり前”があることを知ることなのだろう。

2021年には、“世界を知る”旅の予定が描けるだろうか。

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