カナダ南西端の都市、ビクトリアへ出張している間、日中自由にできる時間は限られていたので、昼飯休憩の合間を惜しんでレコード屋に足を運ばざるを得なかった。
会議場からチャイナタウンへ向かおうと廊下を歩いているとき、柱に貼ってあるポスターに目が止まった。
“Discover our 5 Seasons”
「5つの季節」とは一体?という疑問が頭をよぎる中、足早に通り過ぎる。
ビクトリアのチャイナタウンはカナダで最も歴史が古い。そのど真ん中、古いアパートメントの隙間を縫って中華風の小売店が並ぶ路地に、中華風の装飾も何もなく、ポスターが壁にまばらに貼られているだけの田舎らしいレコード屋がある。
狭い店内には、床から天井までギチギチにレコードラックが積んであって、店主のおじさんはレジまで侵食しているそのレコードラックの隙間に小さなモニターを配して、子供のサッカーの試合らしき動画を見ている。それを肴に、別のおじさんとだべっている。店員でも客でもなくご近所さんが遊びに来ているらしい。古いレコードのカビ臭い匂いと、弛緩した雰囲気。しかしこちらには時間がない。彼らの目を憚らず、慌ただしく棚を漁るしかない。
「そりゃここBC(ブリティッシュ・コロンビア州)のバンドだぜ!」
店主は意外にも目ざとく、僕が手に取ったレコードをについて遠くから英語で解説を加えてくる。
「プログレとかサイケデリック・ロックとかが好きなら間違いない。」
振り返ると、そう言って親指を立てて見せる。結局、その一枚だけを持ってレジへ行くと、店主はニヤリ、として、
「1枚しか買ってかないのか?お前がさっき眺めてたOctobreもいいバンドだぞ。今度、時間があるときに来たら聞かせてやるよ。」
と言うと、間を置いてまたニヤリ、として、
「ま、フランス語だから何言ってんのかわかんないけどな!」
そう言うとガッハッハ、と笑い声をあげた。
Octobreはフランスの入植の拠点だったモントリオールのバンドだ。イギリスの入植の拠点だったここビクトリアでは、カナダのもう一つの公用語であるフランス語を耳にすることはほとんどなかったのだけれど、レコード屋ではモントリオールなどフランス語圏のものばかり見つかった。カナダ国内で、特にロックとなると、西海岸よりケベック地域など東側のバンドの方が遥かに知名度があるし、人気があるらしい。店主のあれは、よくある英語圏カナダジョークだったのだろうか。
「5つの季節」と言って思い出すのはケベック・ロックを代表するバンドHarmoniumが75年に発表した2枚目のアルバム”Si on avait besoin d’une cinquième saison”(もし5番目の季節が必要だとしたら 通称”Les Cinq Saison”=『五番目の季節』)。カナダでも季節は4つ。5番目の季節は、存在しないはずのものなのだろう。
会議場に帰ってきて、ポスターをよく見てみるとそれは「ブッチャートガーデン」の広告だった。
ブッチャートガーデンは1904年から造園が始まった庭園で、「花の都」と言われるビクトリアを象徴する、バンクーバー島最大の観光名所になっている。しかしビクトリア市街からはやや離れていて、今回立ち寄る余裕はない。
調べてみると、ブッチャートガーデンには日本庭園がある。1907年、岸田伊三郎という横浜の庭師が、ビクトリアで商売をしていた息子に招かれて、1912年まで現地で日本庭園を手掛けた。そのうちの一つらしい。
ビクトリアへのイギリスの入植が始まったのは1849年。ヴィクトリア朝の下、イギリス本国では近代化が進むとともに、ミドルクラスの人々が郊外に居を構えて、庭で園芸を嗜むようになった時期のことだ。入植した人々の間で、イギリス伝来の庭園の文化が紡がれていく中で、1877年に日本人が初めてビクトリアに渡り、1893年にはジョサイア・コンドルが英語で日本庭園についての書籍を出版したことをきっかけに日本庭園が海外でも流行し始め、やがてビクトリアで財を成す日本人が現れるようになって、そういう時代背景があって築かれたものなのだろう。
ネットに上げられている日本庭園の写真を見る限り、神社もないのに鳥居があったり、仰々しい竜の噴水があったり、過剰な演出がある気がしないでもないものの、カエデや紫陽花や藤の花、苔むした岩、池、橋、滝、石灯籠など、日本の庭園で目にする風景が散りばめられている。それにしても、やはり現地ではカエデが人気らしく、紅葉の写真ばかりが見つかる。
現在のブッチャートガーデンは、5つの庭から構成されている。庭園といっても元々日本でいうところの植物園に近いもので、日本庭園以外の4つは庭は様式よりもその植物、花や草木の数や種類が売りになっている。季節によって色とりどりの花の絨毯や、珍しい花を見られる4つの庭に対し、日本庭園が華やかさで太刀打ちできるのは紅葉の風景ぐらい、ということかもしれない。
日本庭園に切り取られた秋。その他の4つの庭園にも、それぞれベストシーズンがあって、合わせると5つの季節、ということだろうか?でもそれではなんとなく、本来4つしかない季節に新しく5番目を付け加えるには、味気ない発想だ。
見られなかったブッチャートガーデンの日本庭園のことが気にかかっていた僕は、今年の夏、京都に行った折に山縣有朋の別荘だった「無鄰菴」を訪れた。
無鄰菴の庭園は1894年から96年にかけて、山縣の指図のもとに七代小川治兵衛が作庭した名園とされる。ブッチャートガーデンの日本庭園から10年ほど前。近い時期の庭だ。
小さい頃から僕は、「庭園」はよくわからないものだと思っていた。実家の近くに、水前寺公園という細川藩の大名庭園があるのだけれど、小さい頃、その楽しみ方が分からなかったために、そこが地元を代表する名勝であることについて訝しんでいた。
水前寺公園の池は一帯の湧水を利用していて、脇を流れる川がやはり湧水で形成された湖につながっている。当時の僕にとっては、いかに築山の造形が美しかろうと、池と築山を眺めるにしろ、遊歩道や橋を回遊するにしろ、その湖で過ごす時間と比べて退屈でしかなかった。近くに広い湖があるのに、せせこましい池を用意して、木には触れない、築山にも登れない、そんな空間を作る意図が理解できなかったのだった。
本来の庭の意図としては、東海道五十三次の風景を模したものとされているけれど、当時はそう言われて見ても、よくわからなかった(し、正直今見てもわからないだろう)。
一方、無鄰菴の庭が意図するところは、ひと目でわかる。屋内から庭ごしに比叡山を望むと、木々の奥行きにより、山裾と庭がまるで繋がっているように感じ、庭を這うように流れる琵琶湖疎水は、山肌から湧き出して、そのまま流れ込んでいるように見える。佇んでいると、遠くの比叡山から目の前のモミジの枝まで続く自然の景観を、丸ごと所有しているような感覚がしてくる。
比叡山が季節に応じて色を変えるのに合わせ、今見えている夏の青々とした風景の色も変わっていく、あるいは、手を加えて変えていくのだろう。
無鄰菴の庭は、一年に何度景色を変えるのだろうか?それは4度ではないかもしれないけれど、年中庭を眺めていただろう山縣有朋公にでも聞いて見ないと分からないことだ。
果たしてブッチャートガーデンの庭は、この無鄰菴の庭のように見事な借景を取り入れたものではないにしても、自然の景観を再現している点ではおそらく共通している。年中眺め続けることで発見できる景色の変化、4つの季節の合間に落ちた5つ目、6つ目の景色があるのかもしれない。
そういえば実家にいた間、リビングから毎日眺めていた庭がある。
大きな石が幾つか立ててある下に、小さな池があって、その上にマツの木が張り出している小さな庭。一年中緑色をしたマツの木は、父が几帳面に剪定している。初夏に新芽が伸びてもすぐ切り落とされてしまうし、冬にも雪が滅多に降らない土地なので雪化粧することもなく、年中ほぼ同じ風景だった。
梅雨時には池におたまじゃくしが湧いていたり、夏には窓にヤモリが貼り付いていたり、冬には結露でリビングから見えなくなることがあっても、風景そのものは変わらない。きっと作った人が、そう設計したのだろう。庭は人が作るものだから、あらかじめ企図していなければ、季節に応じて風景が変化することもない。
でもそうすると、庭の風景に5番目の季節を発見することなんてできるのだろうか。
小学生の頃、音楽や生活科の授業で季節について勉強させられた。春夏秋冬の4つの季節。ついでに熊本の梅雨時は、激しく雨が降って蒸し暑いので、「体感的には5つある」と補足があるのが定番だった。その当時、「好きな季節は?」と聞かれたときにはいつも「秋」と答えていたけれど、それは生まれた季節が秋だったからだ。
秋の音楽の時間に『もみじ』を歌って、先生が「裾模様」という表現の素晴らしさを解説したり、『ちいさい秋』を歌って校庭で秋を見つけさせられて、季節感を嗅ぎ取る感性が称揚されたところで、共感できなかった。季節の変化やその風景を、情緒的な何かと関係づけることができなかったのだ。
僕の実家は湖を見渡せる台地のへりにあって、昔、家から湖に面する崖までの間に、広い荒れ地があった。湖に遊びにいくたびに、荒れ地の草をかき分けて行く。夏に雑草たちは僕の背丈よりも高く伸びた後、ある日年に一度の除草業者がやってきてそのすべてがなぎ倒される。そして低調な秋と冬を過ごし、次の夏に向けてまた勢力を増していく。毎年そういうサイクルで景色を変えていく。
僕はそこで、秋にはバッタやとんぼを追いかけて、夏は敵意剥き出しの草原に深くは分け入らず湖に降りて魚や蟹を追いかけて、春は蝶々を追いかけて、冬は葉っぱや木の枝や荒れ地に投棄されたガラクタを拾い集めていた。その時々、遊び相手を追いかけている瞬間が楽しいばかりで、目の前の風景の変化に思いをはせることも、過ぎた季節を想うことも無かった。自分自身が風景の中に溶け込んでいた。
風景の中の季節感のようなものを意識するようになったのは、初めて京都を訪れた時からだと思う。中学校の修学旅行、季節は確か秋だった。自由行動の時間の行先を決めるとき、ガイドブックに載っている、適当な絶景をめぐる行程を組んだ。金閣寺とか銀閣寺とか、下賀茂神社とか平安神宮とか。でも実際に訪れて見る風景はガイドブックの写真ほど目覚しいものとは思えずに、どうすればガイドブックのような秋の京都らしい風景になるのか、写真を撮ってばかりいた。
初めて自分で考えた旅がそんなことだったので、その呪縛に囚われたのだろうか。それから旅をするたびに、季節感のある絶景を探しては写真を撮って、そういう目線が強化されていった気がする。
同じく中学生のとき、家の前の荒れ地が住宅地に造成され始めて、湖も運動公園としてきれいに整備され始めた。僕も虫や魚を追ってその風景の中にズケズケと踏み込んで行かなくなって、湖は眺める対象になっていった。
今では毎年、帰省するたびに見る冬の湖の風景をなぜだか毎回写真に収めている。もはやそれが旅先で見つけた冬の風景なのか、見慣れた故郷の風景なのか、分からなくなってしまった。
ブッチャートガーデンの「5つの季節」の真相が気になって調べ続けた末に、ついに庭園のパンフレットの抜粋を載せているサイトを見つけた。それによれば、5番目の季節の真相は、
「4つの季節に加えて、クリスマスには特別な装いをします。」
ということらしい。広大な庭園全体が雪で白く覆われる季節。そこに張り巡らされた電飾が、暗闇に浮かぶ。確かに一年で唯一、日中よりも夜が華やぐ特別な時間なのだろう。現実的で、説得力がある答え。頭の中に積み上がっていた想像がガラガラと崩れていく。
Harmoniumの『5番目の季節』こと”Si on avait besoin d’une cinqueme saison”では、想像上の5番目の季節が表現されている。アルバムは5つの曲からなり、1曲目が春、2曲目が夏、3曲目が秋、4曲目が冬、そして5曲目の”Histoires sans paroles”が存在しない5番目の季節をテーマにしている。
四季を表す4つの曲それぞれが、それぞれの季節らしい情感で豊かに歌われるのに対し、最後の5番目の季節はタイトルが意味する「言葉のない物語」のとおりに歌詞がなく、物語のようにギター、ピアノ、管楽器、メロトロンで淡々と場面が紡がれる。
海辺から始まって、晩秋を思わせる末枯れた景色から、晩冬の厳寒の下の密やかな芽吹きになり、初春のほのかに空を染める暁になり、そこからメロトロンの不思議な音色が支配し始めて、音楽にあった季節感は混濁し始める。17分に及ぶ楽曲はその真ん中で、劇的なピアノの旋律とともに突然歌い手が現れて、歌詞のない歌で過ぎた季節を思い縋るように歌う。そして、再び季節感が混濁した不思議な音楽に乗せられて空想の風景の中を旅し、残り3分にかかり、音楽は旅の果てに理想郷に達したかのように高揚する。しかし、最後の最後で一気にフルートとピアノだけの牧歌的な音色に転じ、その理想郷の中でつつましく生きる人々の暮らしを描くようにして、曲は締めくくられる。
1975年当時、ケベック独立の政治運動の影響を受けていたHarmoniumがこの曲の「物語」に込めたのはおそらく、カナダのフランス語文化圏に後からやってきて、彼らを支配するようになった英語文化圏に対する連帯、そしてケベックの独立とその先にある理想、彼らの文化、自立を取り戻す、そういう願いだったのだろう。
それを「5番目の季節」に仮託したのはなぜだろう。それは独立という「到来すべき理想」だったのか、イギリスの支配の中で忘れらたフランス語圏カナダの「再び思い出されるべき日常」だったのか。
カナダから帰ってきた後、冬が到来しようとしいる福島で、僕は帰還困難区域の中を進むバスに乗っていた。
車窓からは8年間、全く人の手が付いていない野放図が見える。草木に取り囲まれて鬱蒼とした住宅、壊れたままの店舗、そして元々田園だったのだろう開けた緩やかな谷には、原形を留めないほどに植物が繁茂していた。ススキが支配的な中に、どこからやってきたのか分からない赤や黄色の鮮やかな花が混じり、冬を目前にした木々が今が盛りと言わんばかりにその秋模様の風景を深い緑色で浸食していた。
季節感が破壊されたその風景を見て、頭のなかに”Histoires Sans Paroles”の最後の3分間の音楽が流れ込んでくる。かつて荒れ地で遊んでいた時のように、季節が未分化なままの視界。人一人いるはずもないこの荒野に、幼い自分が駆け出して、虫を追いかけていたあの日々の営みを取り戻している、そんな姿を幻視していた。