父のこと(3)
決して、それまでの私が父の生い立ちについて何も知らなかったわけではない。事実関係は把握していたものの、何となくうまくつながらないというか、親子とはいえ別個の人間のできごとなので、どこか他人事だったのだと思う。我ながら薄情な娘だと感じている。
それが、自分と向き合わざるを得なくなったとき、突然立体感を帯び始めた。そこに至るまでの詳細は割愛する。
父が貧しい農家の四男であったことは先にも述べた。この家はかつて武家であったらしく、お家とやらに対する執着ともいうべきプライドを捨てきれずにいたらしい。そのためか、この時代はどこにでもあった長男だけを大事にする気風が過剰なまでに強かった。ほかの兄弟が成し得たことすら長男の手柄にしてしまう祖父の姿は私も目にしたことがあり、彼に懐いていたにも関わらず、あまりの異様さにぞっとした覚えがある。言い方は悪いが、長男以外は人間扱いされていなかったわけだ。父の父である祖父、その母である曾祖母が話をまともに聞いてくれないなど当たり前、気分次第で殴られることもしょっちゅうだったらしい。
そのくせ、「高校に行きたい」と願い出れば「百姓に学問など不要」と一喝。武家なのか百姓なのかはっきりしろと言いたくなる話だし、そもそも、跡を継がせるわけでもない四男を、きっちり労働量にカウントしているところが恐ろしい。
初めからそのような環境であれば、それが当然だと受け入れるものだろう。しかし父は大いに反発したのだという。そして、学校などで貧乏をなじられてもおとなしくいじめられることなどなく、売られた喧嘩はすべて買うような悪童に育っていった。ほかの兄弟が反発せず、それなりの優等生であったから、父は「変わり者」と扱われたわけだ。
母である祖母も虐げられていたこともあり、「この家では長男以外は虐げられる」とは思っていたが、自分の母親が「女だから虐げられている」という発想はなかったらしい。このため、父はジェンダーロールへの偏見が薄かった(薄すぎるが故の厄介もあったが、それはまた別の機会に書きたい)。そんな父だから、私に「女の子なのだから」などど言い聞かせることはなかった。
これらを事実として把握していた私が、改めて驚いたのはなぜか。それは、父は虐待を受けて育った身でありながら、兄や私を虐待することがなかった事実だ。短気だったし、気難しい側面もあったけれど、自分が悪いことはすぐに認めるし、自分が親であることを振りかざしはしなかった。そうしてしまえば楽だった場面もあっただろうに。
父が不機嫌なときの口ぶりが、祖父そっくりになることがあった。何の気なしに私が「今の、じいちゃんそっくりだね」と笑ったら、心底嫌そうな表情を浮かべたあと、両手で自分の頬をパチンと叩き、笑顔を作ろうとする場面を記憶している。人は、自分がされたことしかできないという。父は、自分の父親である祖父のような言動を選びそうになることがあったのかもしれない。子を所有物のように支配し、言葉や暴力でコントロールしそうになることが。なぜなら、そうした親子体験しかしてこなかったのだから。
いつのころだろうか、私は自分の名前の由来を父に問うてみた。「希望を持って生きろ」というようなことと思いきや、「ちょっと合ってるけど、ちょっと違う」のだという。詳しい説明を願い出たら、以下のように教えてくれた。
「俺が思う希望と、お前が思う希望が一緒だとは限らないだろ。だから俺の考えた希望を持ってほしいと思っても、お前にとってはありがたくないものかもしれない。だから、自分が希望と思えるものを自分で見つけるなり、なければ作るなりして、自分の人生を歩いて行ってくれたらいいと思ったんよ」
「希望がなければ作ればいい」とは、小遣いをもらえないなら自分で稼げばいいと考えた父らしい――当時はそんな風に笑いながらも、父の思いを受け止めて、何となく嬉しいような照れ臭いような気持ちになっただけだった。が、今になって振り返ってみると、「自分と我が子は別個の人間として尊重しよう」という覚悟に思えてならないのだ。そう思うに至るまでにどれだけの葛藤があったのか、あるいは葛藤を続けていたのか、私に知る術はないのだが。
覚悟のきっかけは何となく分かる。いや、あからさまに分かる。母と、その兄弟姉妹と親戚たちだろう。変わり者だと身内にまで忌み嫌われていた父は、母方の親戚たちから「そういう者」として受け入れられ、尊重された。つまりは人間扱いされたわけである。ヘレン・ケラーなら「Water!!!」と叫んでもおかしくない場面だ。いや、ちょっと違うか。
父方にも父の理解者はいた。祖父の弟である大叔父や、自分の末弟に絶大な信頼を寄せていたことは、私も知っている。とはいえ少数派だ。だから父は、自分の実家にいるときよりも、母方の親戚たちと過ごしてるときの方がくつろいでいるように見えたし、事実、心地良かったらしい。父は母方の親戚たちを敬愛していたし、親戚たちも父を大切にしてくれた。あからさまとは言いながら本人に確認したわけではないので推測の域を出ないのだが、これらのことが大きく影響していたように思える。
そう、確認するタイミングはこの10年近く、いくらでもあった。でも、顔を合わせると忘れてしまう。いつものようにあいさつして、雑談して笑って、ときどきくだらないことで小競り合いして、また笑う。いつだって聞けるからと安心していた。でも、「いつだって」はいつまでも続くわけではない。そう気づくのは時が過ぎてからだ。使い古されたような言葉だが、真理だ。
昨年、夏の初めに救急搬送され、息を引き取るまでの1ヶ月間、父は声にならない声で何度も私を呼んだ。何を伝えたかったのか、どんな意味があったのか、分からない。とにかく何度も「希望」と私を呼んだ。父の覚悟が込められた、私の名前を。なぜか「ありがとう」としか言えなくて、でも父はその度、なぜか満足したようにうなずいていたけれど。
葬儀は内々で済ませるつもりでいたのだが、伝え聞いた山形(母方)の親戚たちや友人、知人が多数駆けつけてくださり、思いのほか賑やかなものになった。口数は少ないものの、気心の知れた人たちと朗らかに会食するのが大好きだった父は、さぞかし喜んでいるだろうと母と兄、私は顔を見合わせた。
葬儀を終えてからも1ケ月以上、実家には弔問客が絶えなかった。身内からしたらめんどくせえなと思う部分もあった父だが、「まっすぐで裏表のない鈴木さん」として、父が愛されていたことは、娘として素直に嬉しい。
父の遺骨は、本人の遺志により散骨された。「死んでまでひとところに留まりたくない」という、なんとも多動じいさんらしい理由である。
その後遺品整理をしたところ、何冊ものノートが出てきた。何か感動的な記録が発見されそうな展開であるが、いずれのノートも「何かの記録を始めて見たものの最初の数日で飽きて、そのうちノートの存在すら忘却してしまった」と思われるもので、謎の数字が父の筆跡で数行に渡って記入されているのみ、あとは白紙という状態だった。これもまた父らしいなと、父そっくりの私は、母と共に笑い合った。
こうして父が何を思って生き、最期に何を伝えたかったのか、推測することしかできなくなった。しかし、父から私に伝えたいことなんて、もう何もなかったのかもしれない、とも思う。「自分が希望と思えるものを自分で見つけるなり、なければ作るなりして、自分の人生を歩んでくれ」という気持ちで名づけた時点で、既に。
(了)
おわりに
父についての話は前回でまとめるつもりだったのが最終回までに及んでしまい、しかも私情を理由に公開が遅れてしまった。一生のとは言わないが、そこそこの不覚である。
第1回目でも書いたとおり、私は普段記名で文章を編むタイプの物書きではないし、随筆の類は不得手であると自認していた。そして『アパートメント』の記事は好んで読むことがあったものの、「優しい方々が優しい視点でつづる素敵な読み物サイト」という印象を抱いていたので、まさか薄情で地味な屁こきである私が当番ノートを書くことになるとは思いもしなかった。
だから、管理人であり友人の鈴木悠平さんから打診を受けたときは嬉しくもあったが、正直驚いた。こんな薄情で地味な屁こきが書かせてもらった良いものか、と。
「のんさん(私)の、無理にいいことを言おうとしない文章が好きなんだよね。いつもの感じで書いてくれれば大丈夫」
とのお言葉をいただき、「それなら大丈夫かなあ」と、少し安心はしたものの。
おっかなびっくり始めてみれば、不慣れな随筆の連載は苦しくもあったが、それ以上に楽しかったし、書きたい題材が次々に浮かんだ。ただ、私が不器用で未熟なため、本業と並行しながら書いた当番ノート、読物としての煮詰め方が足りないなと感じながらの公開も多かった。そんな稚拙な文章をご覧くださった皆様には感謝してもしきれない。SNSでの記事のシェアやご感想、励みになりました。ありがとうございました。またどこかでお目にかかりたいです。
また、レビュワーとして伴走してくださった神原由佳さんの存在も、大きな励ましになっていた。彼女のレビューを読むことで当番ノートが完成するようにも思えたし、往復書簡のようでとても楽しかった。ぜひまたご一緒したいと願っている。本当にお世話になりました。今後もよろしくお願いします。
最後に、この機会を設けてくれるなど、いつも何か愉快なことに私をつなげてくれる鈴木悠平さんにも改めて、ありがとう。また遊ぼうね。今度は私からも何か提案できますように。