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2F/当番ノート

あなたが信じていなくても、あなたはあなたで大丈夫。

当番ノート 第53期

前回、私が寸借詐欺師と(半ば意図的に)遭遇した話を書いた。私自身が納得したうえでの行動あっても、相手を増長させ、新たな被害を生み出した可能性も否定できないと認識しており、現在は深く反省している。これを「借金」にすべく、次回1000円を回収する決意を心新たにした。

さて、今回も横浜中華街でのできごとについて書かせていただく。薄い鉛筆の殴り書きのような記憶の中、そこだけがくっきり描かれ、彩られた壁画のごとく、今でも鮮やかに浮かび上がってくる夏の日のできごとを。

最近の私は、ここ2、3年の記憶がやけに薄いように思えてならない。特に昨年1年間の記憶がぼんやりとしている。まったく覚えていないというわけではないのだが、どこか霞がかかっているようにぼんやりしており、まるでもっと昔のできごとであったかのように錯覚してしまいそうな状態なのだ。

10数年前にがんを発症して以来、入退院を繰り返していた実父の容体が悪化していたことのほか、親類縁者の訃報を立て続けに受けたこと、また、フリーのライターとしての仕事が少し軌道に乗り始めたことにより、不慣れな業務も増加、とにかく必死だったことなどが、記憶がぼやけている理由だろう。殊、年明けから夏ごろには思わぬトラブルも相次いで、私は完全に正気を失っていたように思う。そのせいで各所にさまざまなご迷惑をおかけした。今が正気なのか、正気に戻っていたとして、今の私は人間として問題がないかと問われたら口ごもってしまうし、正気でなかったからとて、自分の粗相が許されるとは思っていない旨、強調したい。

私は一人息子と暮らしており、彼は春に長年の不登校から復学したのだが、祖父である私の父の体調悪化に釣られるようにして、再び心のバランスを崩し始めた。2人はとても仲が良かったのだから、無理もない。そして自分の時間をほぼ失って追い詰められ始めた私のもとに、東京出張の話が舞い込んだ。

どうにかして精神的な休息時間を確保しないと限界であると感じていたが、「もし私の出張中、父に何かあったら」という思いが拭い去れない。しかし、「ついでにあっちで2泊ぐらいして休んできなさい」と母に背中を押され、都内のホテルを予約した。「あのときの希望の顔からは、完全に生気が消えていた」と、母は後述している。8月のことである。

ちょうど都内の博物館では興味のある展示が開かれており、それに伴うイベントが、私の滞在中に行われていた。業務を終えた後の私は、どちらも存分に楽しみ、その記録がSNS上に残っているのだが、残念ながら、これらの記憶も薄い(お目にかかった方などについては記憶している)。イベント後、会場で再会した友人から会食に誘われたというのに、なぜか断りを入れて会場を後にしている。酔っていたわけでもないのに、どうやって宿に戻ったのかも覚えていない。

ホテルの予約は、母に「2泊ぐらい」と勧められていたにも関わらず、1泊だけだった。これは意図的だったのはずなのだが、やはり理由が思い出せない。早めに帰るつもりだったのか、現地で新たに1泊の宿を確保するつもりだったのか。とにかくまだ新潟に戻って現実に向き合える気がしなかったし、翌日には『発達ナビ』の担当編集さんとのミーティングを約束していたのだから、帰るわけにもいかない(楽しみでもあったので)。しかし、どういうわけか、東京から離れたい気持ちが強烈に湧き上がっている。どうすべきかと悩んだ末、横浜中華街近くのホテルはどうかと思いつき、調べたところ、空きがあったので予約を入れた。この瞬間まで横浜中華街に泊まるという発想が出てこなかったことが、私にとってはかなりの異常事態である。

横浜中華街に滞在する際には、まず関帝廟と媽祖廟を参拝することが、私の中でのしきたりになっている。平時は大した信仰心なんぞは持たないくせに、出先では「土地の神様にあいさつしておこう」などという気持ちになるのは、やはりどこかに「浮かれた旅行者」の心持があるからだろうか。廟内に流れる、独特の旋律が美しい経に惹かれているというのも大きな理由なのだが。

いつもは理由もなく、まず関帝廟、それから媽祖廟という順序で参拝していたのだが、この日は先に媽祖廟へと私は向かった。これについても別段の理由はない。

拝殿に入るための線香と金紙を受けるべく授与所へ向かった。すると、職員の女性が、私の顔を見るなりこう口にしたのだ。

「大丈夫? 無理しちゃだめだよ」

他人様が看過できないほど、「大丈夫ではない」顔をしていたのだろう。その一言を聞いた途端、私はその場で崩れ落ちるようにへたり込んでしまった。

この日まで、自分が無理をしているだなんて思いもしなかった、弱っていると自覚していたにも関わらず。父に付き添う母の方が大変だ、父本人だって、息子だって、みんなそれぞれに大変に違いない。だから――と、感情を押し込めていたのだと気づいた私は、声が出ないほどにしゃくりあげながら、大粒の涙をこぼしていた。このときの号泣は、弱みをさらけ出せる場所を得られた解放感より、苦しみを自覚できていなかった自分に愕然とする気持ちが大きかったと記憶している。ほかの参拝客の邪魔にならぬようにと、どうにか立ち上がって隅へと移動してからも、しばらく言葉が出なかった。息子には「他人は他人、自分は自分。自分の気持ちを大切にしよう」だなんて偉そうに説いていたのに、なんてことだ、と。

場所柄、こうした参拝客もたまにはいるのだろう、「知らないうちに無理してることもあるよねえ」と、職員さんは慣れた様子で箱入りティッシュと、いつの間に買ってきたのか、ミネラルウォーターのペットボトルを私に差し出した。

「しゃべらなくてもいいよ、あなたが落ち着くまで一緒にいるよ」

隣に寄り添ってくれた職員さんの業務を妨害していると感じて謝罪する私に、「いいのいいの、これも仕事」と彼女は微笑んだ。やはり、こうした客が発生する前例は、過去あったに違いない。

「ある程度生きていると、絶対失いたくないものを手放したり、見送ったりすることは増えて、例えそれがかけがえのない存在だとしても、事実を受け入れなくちゃならないんだよね」

ゆっくりとつぶやく職員さんに向けた私の顔は、「どうして分かった」とでも言いたげだったのだろう、「経験で分かるよ、大体だけどね」と、彼女はいたずらっぽい表情を浮かべた。

「失う覚悟をしていたつもりでも、直面すると冷静でいられないのも普通だし、受け入れるのも簡単じゃないけど。だから、失った分、そこになにか新しいものが入ってくるんだって信じることが支えになるし、そのためにいるのが神様なの。神様は、全部見てるし、全部聞いてるし、全部受け入れる。……あ、何をしても許されるって話じゃないよ、あなたがあなたであることを、絶対に受け入れてくれるってことだよ」

信仰は心の拠り所であるなどとは、見聞きし慣れたフレーズではあるが、私が発したところで、職員さんと同じような響きを伴わせることができただろうか。

「あなたがあなたであることを、絶対に受け入れてくれる」、さらりと聞けばなんとも甘く柔らかい。でも私には、耳障りの良い言葉として届かなかった。私が私であることは、決してきれいごとだけでは済まされないし、むしろわがことながら目をそむけたくなることばかりだったから。

当時私が抱えていたのは、やがて訪れる喪失から逃げ出したい気持ちだけではない。取り戻せない時間を思い知ったやりきれなさ、無意識にでも抱いてしまう悪意がある事実、それを正当化したい身勝手さ、誰かを受け入れられないくせに、自分は受け入れられたいという傲慢さなどが渦巻いていた。醜い自分と向き合いたい、でもうまく直視できず、あるいは直視を避けて逃げ出してしまう事実があるジレンマ――こうしたことも含めた「私」。そんな自分を「絶対に受け入れてくれる」存在なんて、にわかに信じられるわけがない。

一方、職員さんが信じることができているのは、きっと自分と向き合う覚悟、その先が安寧とは言えずとも、踏みしめ歩ける道があるのだと、伝えながら生きる覚悟を決めたからこそだろう。ただ神をすがるだけでは出せない重みとやさしさ、温かさがあるように感じられた。しかし私は、彼女が言わんとすることの意味や心の内を、完全に理解できたわけではなかったし、またもや顔に出ていたのだろう、さらに続けた。

「ピンと来なくても、信じられなくても大丈夫。それも受け入れてもらえるから。さ、媽祖様たちとお話をしてらっしゃい。気が済むまでゆっくりね」

職員さんに促され、私は拝殿へと向かった。祈るでもなく、吐き出すでもなく、次々と浮かぶ思いを鎮めようともせず、ただただ額づいた。

弱く、醜い自分を直視せず、ごまかしながら進むこともできなくはない。でも、これまで自分と向き合うことを逡巡してきたからこそ、自分のキャパシティーを把握できずにさまざまなものごとを背負い込み、気が狂わんばかりの現状に行き着いたのではなかろうか。

心の在り方次第で片づけられない問題も現実にはある。その一つひとつを解決、あるいは収束させるためには、まず「自分に向き合えない自分」がいることを認め、向き合わなくてはならない。ならば向き合おう、向き合うしかない――未熟な私がこの日決意できたのは、たったのこれだけ。

一礼して拝殿から退出、金紙を炉にくべ、授与所へ向かった。先ほどの職員さんに私がお礼を伝えたところで、彼女は「そうそう、前髪!」と言いながらパン!と両手を鳴らした。ヘアドネーションへの寄付を目指していた当時の私の髪は、前髪も含め、腰に届くほどの長さ。叩頭礼を繰り返し、さらに今しがた頭を下げた私の髪は風に煽られたかのように乱れ、顔全体を覆うありさまだったのだ。職員さんはポケットから小さなヘアクリップを出し、片手で私の前髪をすいてから、くるりとねじって留めてくれた。

「運は額から入ってくるの。だから前髪は上げていた方がいいよ。ほら、その方があなたの可愛い顔もちゃんと見えるから」

そう言われた途端に照れ臭く、でも心づかいがたまらなく嬉しく思えて、私は笑った。

「やっと笑った! うん、笑えないときは笑えなくてもいいの。でも、あなたが信じていなくても、媽祖様はあなたのことが大好きだってことは、頭の中に入れておいてね。あなたはあなたで大丈夫。またいつでもいらっしゃい。媽祖様も、私も待っているから」

ミネラルウォーターのお金を払おうとしたのだが、「あなたが私と同じ立場になったときに使うつもりでいてほしい」と職員さんは固辞。納得した私はもう一度深く一礼し、媽祖廟をあとにした。

それから約2週間後、父が息を引き取った。職員さんの言葉通り、覚悟をしていたもののやはり冷静ではいられなかった。しかし、無事見送りを済ませることができ、心構えがあっただけ良かったとも思えている。

あのころから抱えていた諸問題のなかには、まだ手つかずのものもある。しかし、その山を崩して積みなおし、ゆっくり見直すことができている分、前進できているのかもしれない。

さて、媽祖廟の職員さんの信仰心に触れたことや、父の葬送をきっかけに、道教や仏教にまつわる本を読むようにはなった私ではあるが、今のところは「へえなるほどな」とうなずくまでにとどまっている。確固たる宗教観は持っておらず、信仰のなんたるかを語るには程遠い。

その後何度か媽祖廟へと足を運んでいるものの、件の職員さんの休みとことごとく被ってしまい、またCOVID-19以来、関東に出向く機会がめっきりなくなってしまったこともあり、未だに再会は叶わずにいる。

ただ、 自分と向き合うことは、心のケアの一環としても続けたいと思っている。その願いを忘れぬためのスペースを仕事用のデスク横、いつでも眺められる場所に作った。廟と呼ぶにはあまりにもささやかだが、脆弱な私の意志を励ます効果は十分である。

職員さんが私に留めてくれたクリップは、その後、さらに伸びた髪をヘアドネーションに寄付するため、美容院へと向かう道中、私の毛量に耐えかねたのか、歩くリズムに合わせるようにして勢いよく跳ね飛んでしまった。慌てて探し回ったものの、見つけることはできなかった。

ここに記した一連のできごとは、「神様のお導き」と捉えることも、「単なる偶然」と流してしまうこともできる。しかし正直、私としてはどちらでもいいし、どうでもいいとすら思う。

絶妙なタイミングで件の職員さんと出会い、厳しくもやさしさに満ちた彼女の言葉をきっかけに、自分の中の棚卸しを始められた。そして冒頭で述べたように、おぼろげな記憶しかできないなりにも歩み続け、現在にたどり着けたという事実の方が、私にとって大切だからだ。

伝えたいことがたくさんあるから、私はまた媽祖廟へと足を運ぶのだろう。いただきものであるクリップを紛失してしまった私を、媽祖様が受け入れてくれたとして、職員さんは笑ってくれるだろうか。うん、それはどちらでもいい。とにかく私はお礼を言いたいし、今度は明るく笑って話せるはずだと信じている。

鈴木希望

鈴木希望

1975年新潟生まれ、新潟にて息子とふたりで暮らす、フリーランスのライターです。広告媒体の文章を中心に、『LITALICO発達ナビ』などでのコラムもときどき。ヤギを愛し、ヤギについて考え、ヤギを応援しています。

Reviewed by
神原由佳

鈴木さんのコラムを読んでいて、少しずれているかもしれないけど、思い出したエピソードがあるので書きたいと思う。
大学時代、私は柄にもなく、バスケ部のマネージャーをしていて、3年生にもなると、さらに柄にもなく、私がマネキャプ(全学年のマネージャーを取りまとめるキャプテンのこと)を務めることになった。
理由は、1年生の時に同時に入部したマネージャーたちが、彼氏と遊べないとか、バイトが忙しいとか、門限が厳しいとかで、特になんの相談もされずに続々と辞めていってしまったからだ。気づいた時には自分の学年のマネージャーは私だけになっていて、意地でも辞められなくなってしまい、気づいたらマネキャプになってしまっていた。
大学の勉強以外の大半を部活に費やしてきたのに、その間のことは意外にも記憶に残っていない。ただなんとなく、チームの中で浮いていたような気がする。そもそも、文化部出身の私には住む世界が違ったのかもしれない。そのことに薄々気づきながら騙し騙しやっていたのかもしれない。苦しいと思うことがたくさんあった。だけど、その苦しさの中で楽しい記憶が小さな星のように点在して輝いている。
経験した何百試合のほとんどはすっかり忘れてしまっている。ただ、どうしても忘れられない試合が私にもあって、準決勝のブザービート、プレーヤーの怪我……。今思い返しても、当時あれだけ頑張っていたはずなのにほとんど思い出せなくて、なんだか少し寂しくなった。
そんな中で唯一救われたエピソードとして記憶にあるのは、3年生の秋の大会のできごとである。正確に言うと、試合ではなく、試合後の話だ。
あの日は試合に負けて、負けた大学はすぐに次の試合のT.O.(テーブルオフィシャルズ:競技時間を計ったり、スコアシートに記録をつけたりするゲーム進行補佐)をしなければならない。次の試合までの数分間のうちに、マネージャーたちにT.O.か試合を終えたプレーヤーのケアの役を割り振らなければならない。今以上にマルチタスクと素早い判断をすることが苦手で、全く予想外の敗戦(うちは強豪校だったので負ける予想など全くしていなかった。傲慢さにも程がある)も重なり、頭の中が真っ白になってしまい、その場に立ち尽くしてしまった。
体育館の階段のど真ん中に突っ立った私の横を多くの人が通り過ぎていく。やばいやばいやばい。早くみんなのところに行って、指示を出さなきゃ。時間ばかりが過ぎていく。やばいやばいやばい……。そう思えば思うほど、頭も身体も動かなくなってしまった。すると、ぽんぽんと肩を叩かれた。振り向くと「大丈夫?」と言ってプレーヤーの同期が立っていた。彼の顔を見て、再び脳に酸素が取り込まれるようになったような感覚を覚えた。私は情けなく「う、うん」しか言えなかったと思う。
これはほんの一瞬のできごとだ。その後、私はマネージャーたちにどんな指示を出したのか全く覚えていない。ただ、あの「大丈夫?」がなければ私はずっと階段のど真ん中で立ち尽くしていたと思う。私は今でも、彼のことを恩人のように思っている。
大学を卒業して数年後、食事会で彼と同席した時に何かの流れでこの話になり、その時は救われたと感謝を伝えた。彼は「そうだっけ?」とすっかり忘れてしまっていたけれど、そうなんだよ。いつか、彼に恩返しをしたいと思っている。

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