昨年秋に病死した父は、自分の親や一部の兄弟、親戚にまで変人扱いされている人間だった。私も、父を変人だと思っている。ただしそれは、親戚たちが言うのとはまったく別の意味。
父については『発達ナビ』のコラムでも二度触れている。(1回目 2回目)
当時は勉強不足、私の自己理解の浅さが伴い、父を「ASD(自閉症スペクトラム障害)様の傾向がある」と記したが、実際はADHD(注意欠如多動性障害)の傾向が強いように思える。これについての話は、いつか別の機会があれば詳しく書きたい。
父は第二次世界大戦の最中、貧乏な農家の四男として生まれた。服はすべて兄たちからのお下がりで、小遣いなんてものは当たり前のようにない。だというのに、幼いころから読書、時には映画を楽しんでいたというから、私は不思議でたまらなかった。どうしていたのかと聞くと、山で山菜や野菜を採り、それを売って費用を作っていたのだと言う。
「(興味があることに使えるお金が)なかったから、自分で作ればいいやって思った」
笑って語ってくれてはいたが、それを始めたのが小学生のころなのだから、我が父ながら恐れ入る。次第に手段でしかなかった山菜や野草、植物全般に興味を抱き始めて独学し、とある専門家から「似通った植物の見分け方についての知識は、下手な学者よりも造詣が深い」とのお墨付きをいただいた、おたく気質の持ち主でもあった。
そんな父だから、自分の好きなことについて語るときは本当に楽しそうで、私はそれを聞くのが大好きだった。一緒に山に入ると、植物や動物の生態などについて、自分の体験や民話、神話に絡めて話してくれるのだ。昨今、父について、人気漫画『ゴールデンカムイ』のヒロインの父・ウイルクのようだと友人知人に言われることがある。私も、父とウイルクには似た側面があると感じている。決定的に違う点がひとつあるのだが。
父は感覚過敏もあったようで、体調を崩しやすかった。それもあってか、私が幼いころには失業し、ずっと床に伏せっていた時期もあったし、決して裕福な家庭ではなかったと思う。兄と私、2人の幼子を抱え、父も母もさぞかし不安であっただろう。でも、父と母が当然のように家事を助け合う姿を眺められたことや、父が体調の良い日には、自転車でいろいろなところに連れて行ってもらえることが私には嬉しい体験となった。自転車を漕ぐ父の背中につかまって見上げた、竹林越しに臨む青空は今でも鮮明に思い出せる。あんなに美しい空は、未だに見たことがない。
「男が女に助けられるなんて情けない」という風潮が、昭和50年代である当時に流れていたことは私も知っていたし、父がそれに苦しめられていることも、子どもながらに感じていた。でも、働く母を支えながら家事をこなし、兄や私に向き合ってくれる父が情けないなんて、私は一切思えずにいた。
私が小学校に上がるころまでに父は完全復活し、体調や特性などを鑑みてくれる企業に出会い、定年を過ぎてまで働くことになるのだが、それは一旦横に置く。とにかく、父が再就職し、私が小学校に上がったころ、事件は起きた。
そのころと言えば、女の子の名前は「子」の字が付くのが当たり前、「希望」と書いて「のぞみ」と読む私の名前は、辞書に記載されている名乗り読みではあるが、一般的ではなかった。そして、当時私が暮らしていた土地は、お世辞にも治安が良いとは言えず、その理由を産み出す住民が同級生の父親にも存在していたのだ。
そう、酒臭い息を吐きながら私の腕を掴んだのは、何組のなんとかちゃんのお父さん。こんなところでトラブルになれば、話したこともない彼女と嫌な関係になるかもしれない。そんなの嫌。だから適当に話を終わらせて逃げなくちゃ――ポンコツを自認していた私だが、それくらいの気を回す社会性はあった、そんな土地育ちだから。しかし、私はなんとかちゃんのお父さんの言葉が吐いた次の言葉を受け、平静ではいられなくなったのだ。
「お前の名前、希望と書いてのぞみって読ませるんだよな? ずいぶん気取った名前だよな。センスも教養もない田舎の人間が、見栄えだけで付けたってのが丸分かりの下品な名前だな!」
黙って聞き流せばそれで済むなんて分かっていた。でも、父がなぜこの名前を付けたのかという理由を知っていたからこそ、黙っていることなんてできなかった。たかだか酔っぱらいのたわごと、聞き流せばいいだなんて分かっていた。向こうだって、たまたま目に入ったガキを泣かせば気が済んだのだろうし。それでも私は、反論せねばならぬと感じたのだ。
「希望と書いてのぞみと読ませるのは、辞書にも載っている名乗り読みです。もしそれをご存知なかったとしても、他人の名前を自分の感覚を判断するだけではなく、名付け親まで侮辱する感覚の方が、私からしたら下品に思えます」
言い終わるか終わらないかというタイミングで、何組のなんとかちゃんのお父さんの拳が、私の頬に直撃した、「うるせえクソガキ!」という言葉と共に。理不尽、あまりにも理不尽。腹が立った。悔しくてたまらず、落涙した。さりとて、力のない幼子である私は、ただ八つ当たりしたいだけの相手に、有効な反撃をできないと悟った。早く帰宅して、やりきれない思いを吐き出したい。父なら聞いてくれるはずだ。でも、父に告げたら、彼はこの男を殺すかもしれない――そう、私は愛されている自信があったのだ。だからこそ父には言えなかったが、私は今でも後悔なんてしていない。なぜなら、私の名前に込めた父の覚悟を、私は知っているから。
父は「ほんわり柔らか、理解のあるマイホームパパ」なんかではなかった。相手の良い点を見出だそうとする面はあったが、簡単には心を開かないし、心を開いた相手と分かり合うためには、ぶつかり合うことも厭わない。それが叶わないと分かれば関わることも諦め、まるで存在しなかったかのように扱う、ある意味冷徹な合理主義者でもあった。だからこそ、分かり合うことに妥協しない……というか、負けず嫌いの私は、しょっちゅう父とぶつかったものだ。
親に強く言われたらそれを当たり前に感じ、知らず知らずのうちに合わせるようになるという話はよく見聞きする。でも、私は父に楯突いていた、もちろん自分の誤りや無知を思い知らされるなんて思わずに。
なぜか。答えは簡単、父は自分の間違いをあっさり認めたり、相手の意見を聞き入れて「自分ならば」と考慮し、その意見を伝えてくれる柔軟さがあったからだ。
子は親を選べない。いわゆるガチャと同じである。親ガチャで当たりを引いた私はそれが当たり前だと思い込み、いわゆる毒親育ちの方々の傷をえぐるような発言をしてしまった過去がある。
しかし私はすぐさま反省の機会を得たのだ、思いがけないかたちで。
(続)