入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

サーモンラン /ヘルシンキ,フィンランド

当番ノート 第53期

ヘルシンキ・ヴァンター空港は乗り継ぎで通過するだけだったし、早朝に営業している店もあまりないだろうからと思って、ターミナルに何があるのか調べていなかった。トランジットの手荷物検査を終えて、ターミナルへの扉が開くやいなや目に飛び込んできたのは「味千ラーメン」だった。店は閉まっている。みやげ店の列の中で、皆と平等に店名のサインだけが営業している。

ここはヘルシンキ・ヴァンター空港。

オーロラ、ムーミン、マリメッコ、マリメッコ、トナカイ、ムーミン、味千ラーメン。

「味千ラーメン」は熊本ラーメンのフランチャイズチェーンである。

実家の近くに本店があるけれど、入ったことは2、3度しかない。最後に入ったのは大学何年生かの夏休み、実家に帰省したとき、同じく帰省していた兄と一緒だった。

その店舗の裏手の住宅街に、黄色い小さな建物の中華料理店があったのだけれど、同じ年の春に閉店してしまった。その中華料理屋がある間は、味千ラーメン本店の近くまで来てたとしてもスルーして中華料理屋に行っていた。とにかく、そこの餃子が美味しかった。

表はもちもち、裏はぱりぱりの分厚い皮。子供が食べるのには3、4口要する大きく、肉厚な餃子だった。ひと口目、噛みちぎろうとすると、前歯が食い込んだ断面から肉汁がこぼれて、皿の上で冷えていく。小さいころは毎回それがもったいなくて、悔しかった。

誕生日にはお持ち帰りの餃子。親戚が集まっても餃子。思い返すと、外食すること自体珍しかったわが家にとってのただひとつの行きつけだった。

夏休みの昼下がり、昼飯のアテがなかった兄弟は、閉店して数カ月の中華料理屋に向かった。看板もなくなって、空っぽになった小さな一軒家の壁はまだ黄色く塗られたままだった。

餃子。そしてチャーシュー麺をよく食べた。いつかサービスで出してくれた料理も美味しかった、あれは何だったっけ?エビチリ?

ひとしきりこれまでに食べた料理を店の前で思い出したあと、兄弟は黄色い建物と別れ、とぼとぼと引き返した。そして手近な味千ラーメンに入った。そんな流れだった。

そしてそのとき僕は、久しぶりに「不味い」という感覚を思い出した。

餃子を頼んだのは良くなかったと思う。一口サイズの薄皮の餃子は、あの中華料理屋の餃子のようなジューシーさがない。くにゃくにゃとした皮の歯触りを噛みしだいていくと、唾液と混ざって口に薬味の香りが広がる。あのパリッ、と皮を破くと旨味が溢れ、こぼれ落ちてくる感覚とはかけ離れている。ラーメンのスープも、醤油タレと豚骨スープが互いを雑味だと思っているようにギスギスしていて調和しない。麺の食感もなんだか重たい感じがする。あの中華料理屋のチャーシュー麺の青湯。あっさりとした口当たりの後に残る複雑な後味。スルスルと胃袋に落ちていく麺。

直前まで甘美な夢に浸っていた味覚は寝覚め悪く、味千ラーメンの味を受け付けなかった。

味千ラーメンを目撃した朝から一週間後、ヘルシンキに帰ってきた。日本まで飛ぶ飛行機の発着をヘルシンキ・ヴァンター空港にしていたから、長旅のおまけにヘルシンキに1泊、船でバルト海を渡ってエストニアのタリンに1泊する算段だった。

ヘルシンキはさすが白夜の国の首都らしく、20時を回ってもまだ空が明るかった。しかし日が長いからといって店は遅くまで開いていない。むしろ早々に閉めてしまう。駅前の繁華街には古い街並みが残り、派手なネオンサインもあまりない。街全体が薄明に沈んでいく中で、営業を続けるコーヒーチェーンとハンバーガー屋の近代的な店ヅラが輝きを増していく。フィンランドは国民一人当たりのコーヒー消費量が世界一。手ごろな外食としてハンバーガー屋が幅を利かせている。

ヘルシンキまで来てハンバーガー。別にパティがトナカイの肉なわけでもないし、入っているものは日本と変わらない。限られた滞在時間をハンバーガーに費やしていることに味気なさを感じつつ、明日14時出航のタリン行きの船に乗るまでにやることを考える、コーヒー屋、市場、美術館、レコード屋、お昼にはフィンランド料理を食べて……

翌朝、「かもめ食堂」の近くにあるコーヒーロースタリーに行ったら、そこのコーヒーが驚くほど美味しかった。やっぱりヘルシンキまで来た甲斐があったと思い直して、土産に袋詰めの豆を買おうと手に取ると、パッケージの裏側に概ねこんなことが書いてある。

「この国はコーヒーの消費量が世界一だ。だがハッキリ言って『フィンランド人が飲んでいるコーヒーはクソマズい』という意見は正しい。オレたちはそんな状況を変えたい。」

読んでいて思い出した。確か昔、フランスの大統領が「フィンランド料理はイギリス料理並みにマズい」という発言して物議を醸した。イギリス料理については確かに、ロンドンで食べたウナギのゼリー寄せが感動するほど不味かった。不味いことは覚悟していたけれど、想像を超えていた。泥臭く、淡白なうなぎの身と、やけに塩辛い煮凝り。添えられたパンを塩気を紛らすために一緒に口に入れると、パンに塗られた油が煮凝りと混ざることなく分離して、油の臭さと泥臭さが同時に広がる。そして追い討ちのようにうなぎの骨が口に刺さる。あれに負けず劣らず、フィンランド料理も不味いと言うのだろうか?

13時ごろ、市場も美術館もレコード屋もこなして軽食屋にたどり着いた。パスタがメインのランチだったけれど、サイドメニューに伝統料理もある。サイドメニューの筆頭に挙げられている”Lohikeitto”はサーモンと野菜のスープらしい。サーモンのスープ。いかにもフィンランド の郷土料理っぽい。スープならばパスタの副菜にも良いだろうと思って注文したのだが、運ばれてきたものを見て、他の客の体格をよく観察しておくべきだったと後悔した。

右隣のテーブルでは男女4人の客が、彼らの体格からしても大きめの皿でパスタを食べている。4人の身長は少なくとも180cm台、一番大きい男性は見るからに190cm以上ある。全てがスケールアップしていたから違和感を感じなかったのだろう。目の前にあるパスタ皿は、未だかつて見たことないほどデカい。

”Lohikeitto”はごろごろとしたサーモンの切り身、ジャガイモ、にんじんが入った、少しブラウンがかった白いクリーム状のスープだった。大量のディルが浮いている。スープに野菜の旨味が溶けていて、サーモンとディルの相性はいわずもがなで、おいしい。決してウナギのゼリー寄せと同列に語ってはいけない。ただ、パスタの箸休めにする重量感ではない。しかも一緒に頼んだ大盛りのパスタもディルで香りづけられていて、似たような風味だ。

船が出航する14時まであまり時間はない。急いで口に運ぶものの、パスタもスープも半分しか片付いていないところで、満腹中枢から差し止めを告げられる。それから何度もスプーンを置いては立ち向かい、置いては立ち向かいを繰り返し、完食した時には出航の時間まで20分を切っていた。

立ち上がるのも苦しい状態で、荷物を抱えて600m先の電停まで走った。次のトラムを逃すと間に合わない。上体が揺れるたびに、食道をサーモンが遡上する。結局サーモンは食道を登り切ることなく、トラムにも間に合ったのだが、車内で整えた呼吸はひたすらディルの香りを纏っていた。今だにディルの香りを嗅ぐと、あの軽食屋から港まで走ったヘルシンキ市街の道のりに想像力が回帰する。

タリンからヘルシンキに戻り、ヘルシンキ・ヴァンター空港に向かう列車の中で、旅で手に入れたレコードやら酒やらみやげの品々をまとめていた。

ヘルシンキで手に入れたレコードの中に、漁師らしき男が魚を追っているような絵柄がジャケットの1枚がある。Noitalinna  Huraa!というバンドの”Kalan Silma”という88年の作品で、”Kala”が「魚」、”Silma”は「目」なので表題は「魚の目」という意味になる。骸骨のような漁師が追いかけている魚は、半身を翻しながら尾の部分を水面から出している。力強く振りあげられた太い尾と、三日月状の鰭はサーモンを思わせる。

そういえば、ヘルシンキの市場で見たサーモンはみんなフィレーになっていたので、鮭の目にはお目にかかっていない。いや、日本でも鮭の目というのは絵でしか見たことがない気がする。そもそも我が家ではあまり鮭を食べなかった。食べるにしても切り身の焼き鮭、サケフレーク、たまに作る巻き寿司のネタ(多分ノルウェーサーモンだったのだろう)、クリスマスに出て来た舶来品のスモークサーモン。一匹丸ごとを目にする機会はなかった。九州の河に鮭が登っていたのは遥か昔、海水温が今よりだいぶ低かった頃の話だから、僕の故郷の熊本に鮭を食べる習慣は残りようもなかっただろう。東京に来て、氷頭を珍味とすることを知ったときは理解に苦しんだ。なんで取り立てて魚の鼻を調理しようと考えたのか……

フィンランドは元々、北部にあるトルネ川をはじめ、世界有数のサーモンの遡上数を誇る河川を有していた。しかし二次大戦後、大きな河川を水力発電に利用したことにより、サーモンが遡上する河川の数は大きく減少した。その後、野生のサーモンの個体数の減少に対応するため、資源回復のための孵化放流が行われるようになり、70、80年代には個体数が回復基調になって、漁も盛んになった。

しかし、90年代に入る頃には再び資源の枯渇が懸念されるようになり、フィンランド政府はサーモン漁の漁期や漁具、漁獲量や獲って良いサーモンのサイズに制限を課すようになる。さらに同じ頃、お隣のノルウェーの養殖サーモンが安価で提供され始めて、フィンランドのサーモン漁は経済的に立ち向かえなくなっていき、今ではほとんど行われていない。野生のサーモンと人間との闘いはもっぱら、今でもサーモンが遡上する極北のトルネ川に巨大サーモンを求めてやってくる釣り人達により行われている。生業としての漁業が停滞する一方で、フィンランドは釣りレジャー大国である。

ヘルシンキの市場で見たサーモンは、おそらくノルウェーからやってきた養殖ものだったのだろう。今、フィンランドで最も食べられている魚は、ノルウェーからやってくるサーモンらしい。でも、ノルウェーサーモンが支配的ではなかった90年代半ばまでは、ニシンが一番食べられている魚だったそうだ。じゃあ、サーモンスープがフィンランド名物のような顔をするようになったのは、いつからなんだろうか?

レコードジャケットに画かれた骸骨のような漁師は、戦前の豊かな漁の幻想に取り憑かれ、もはやサーモンが泳ぐことのない川面で尻尾の幻影を追いかける亡霊の姿なのかもしれない。

ヘルシンキ・ヴァンター空港は予想外の混雑で、出国ゲートをくぐった時には飛行機の搭乗時刻が30分後に迫っていた。一週間前に味千ラーメンを見た時から、なぜだかまた戻ってきてラーメンを食べてから日本に帰らなければいけない気がしていた僕は、所定の出発ゲート通り過ぎ、味千ラーメンに向かって走った。

営業中の味千ラーメンの店頭には、ごく控え目に豚骨の匂いが漂っている。さすがに日本の街中のように垂れ流す訳にはいかないようだ。そして店内は意外にもというべきか、空席が少なく盛況だ。

注文した「味千ラーメン」は、チャーシュー、わかめ、味玉、ねぎ、キャベツのトッピングと白濁したスープに焦げた色の油が浮いている、いかにも熊本ラーメンらしい見た目をしていた。麺は若干くたびれて底に沈んでいるものの、味はよくある熊本ラーメンだ。あの夏休みに食べたラーメンと同じ味なのか、違う味なのかわからないけれど、少なくとも今回は、おいしい。

熊本ラーメンの味。「熊本ラーメン」という言葉を意識するようになったのは、東京に出てきて、新宿に熊本ラーメンの老舗「桂花ラーメン」があるのを見つけてからだったと思う。熊本にいるときにはただ、この熊本ラーメンの味が当たり前のラーメンの味だった。

熊本ラーメンは、1950年代に生まれた久留米ラーメンのスタイルをヒントに生まれたものとされている。50年代に桂花といった老舗が創業したのに続いて、味千ラーメンは1968年に創業し、あの中華料理屋の近くの本店を構えた。現在、国内は熊本を中心に70店舗ぐらい、そして海外には800店舗以上を展開している。

僕がノルウェーサーモンから連想して、漠然と「北欧」と「サーモン」を結びつけていたように、ここヘルシンキ・ヴァンター空港をはじめ、海外800店舗に訪れる客たちには見知らぬ「熊本」が「豚骨」「ラーメン」と結びつけられるのだろう。東京に来て、熊本の名物は何かと聞かれた時に「熊本ラーメン」と答えるようになった僕自身も、そのステレオタイプを少なからず共有している。

遥か北欧の地で当たり前の味に安心感を感じながら、一方でその味に郷愁を感じるのでもない。今から帰る東京でも見つけられる味。なぜこの味のために、わざわざ走ってきたのだろう?

 

味千ラーメンの看板を見たとき想起したのは、もう二度と食べられないあの中華料理屋の味だった。枯れてしまった時の流れの微かな匂いを、その傍らで続く流れに辿って。

Kazuki Ueda

Kazuki Ueda

市井の音楽愛好家。
八代生まれ熊本育ち。
母方はメロン、父方はワイン。時々映画、頻繁に美術。

Reviewed by
もりやみほ

初めてのタイで初めて入った飲食店は、8番らーめんだった。一緒に行った富山出身の友人が、これまた富山出身である8番らーめんを食べてみたいと言って、夜な夜なスープに口をつけた。味が好きだとか、思い入れがあるとかではない。ただ「出身地が同じ」だけ。けれど異国の地では、それが大きな共通点になる。

熊本出身のUedaさんが、ヘルシンキ・ヴァンター空港で見つけた熊本の味千ラーメン。「不味い」という印象しかなかったはずなのに、時間の無いなかお店に駆け込み豚骨のほのかな匂いにふれる。

「なぜこの味のために、わざわざ走ってきたのだろう?」とUedaさんは言うけれど、なんだかわからなくも無いような気がする。異国の地での共通点は、何よりも心強く安心感をもたらすものなのだ。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る