僕が大学生のとき、祖父が米寿を迎えたので、親戚一堂でお祝いをした。僕は大学に入ってから声楽を習っていたのだが、母に「二度と聞かせられる機会もないかも知れないんだから」と押されて、祝いの席で歌を披露することになった。
気恥ずかしいのはもちろん、我が家とはなんの縁もないイタリア歌曲を歌うのはなんとなくためらわれたが、兄に指揮をしてもらうことで寄るべを得て歌いきったのだった。
親戚は皆、僕が声楽をやっていることなんて知らなかったので驚きの声を上げていた。そんな中で祖父が開口一番語ったのは歌の感想でもなく、僕が初めて聞く思い出だった。
「かずきは今どこに住みよっとか。杉並あたりだったか。」
「そうだよ。」
「おれも若かころ、杉並あたりで歌いよったとぞ。」
唐突に語られた内容に驚いた僕は、「いつ」「誰と」「何を」といった具体的なことを聞き損ねてしまった。祖父も当時の杉並の景色や人々について語るばかりで、歌のことは教えてくれなかった。後で父や叔母に聞いたところ、祖父はかつて、八代平野の干拓の際に歌われた労働歌が元となった「おざや節」という民謡の歌い手だった。「杉並あたりで歌っていた」というのは、のど自慢のようなNHKの番組で「おざや節」を歌ったことがある、ということらしい。
祖父は八代で生まれ育った。祖父はかつて技師をしていて、八代平野の干拓地と元からあった大地との際のあたりに、自分で設計して家を建てた。八代平野の3分の2は干拓地で、祖父が生きてきた時代にも干拓は進められてきた。
里帰りのたび、八代インター手前の高速道路の高架から平野を一望できた。小さい頃、その景色を見ながら、平野一面に絵が描かれているのを想像していた。ナスカの地上絵が、230平方キロメートルの八代平野より広い面積にわたって描かれているということを知って、その人智を超えたスケールを理解しようとしていたのだった。
祖父が設計した家には突端に縁側のような場所があり、半ば物置のようになっていて、そこに古びた黒い革張りのソファが押しやられていた。黒い革は夏もひんやりしていて、夏休みに帰省すると日中ソファにはりついていた。ソファの横には読み捨てられた本がいっぱいに詰められた棚があり、祖父はいつも「好きな本を持っていってよかぞ」と言うのだが、祖父の趣味なのかハードボイルドな感じの海外のサスペンスが多くて、小学生の想像力で理解できる代物は少なかった。とはいえ、長い長い小学生の夏休みの昼間を凌ぐため、手持ち無沙汰に手に取ってみることがしばしばあった。
確か4年生の夏休みに『神々の指紋』というオカルト本を手にして読み始めたところ、存外のめり込んでしまい、家に持って帰ってまでして読み通した。1万年前に超古代文明があった、というその内容の真偽はともかく、「マチュピチュ」「テオティワカン」といった初めて知る古代の遺跡の壮大な風景、神秘に魅せられた。「ナスカの地上絵」もその本で知った。それ以来、行ってみたい旅行先を聞かれた時はマチュピチュとナスカの地上絵があるペルーと答えていた。少なくとも高校に入る頃まではそうだったと思う。
米寿祝いから帰る車窓、いつものように平野の汀線を示す灯りが夜の不知火海に浮かんでいた。多分、その時初めて、この景色そのものが人の手で作られたものだったことについて考えていた。
祖父が出演したという番組を見れないかと思って、NHKのアーカイブで「おざや節」が歌われた番組を探した。
例えば、1966年4月14日放送の『若い民謡』という番組で、「ぶらぶら節」や「秋田音頭」に並んで、プロの歌い手によって歌われている。同じ年、7月7日放送の『ふるさとの歌まつり』では、水俣市からの中継で「八代市有志」が披露したらしい。しかし、アーカイブを見る限り、70年代までに、この2回を含め58年、69年、74年の計5番組でしか「おざや節」は確認できず、「八代市有志」が東京で披露した記録はない。記録が抜けているのか、あるいは58年よりもっと昔のことだったのだろうか?
「おざや節」と比べ、八代市の東隣の五木村に伝わる「五木の子守唄」は郷里の歌として圧倒的に知名度があって、先ほどのNHKのアーカイブの検索でも無数にヒットする。50年代にレコードを通じて全国に知られるようになった「五木の子守唄」は、その後ザ・ピーナッツや美空ひばりが歌い、果ては50年代に「ニューヨークのため息」と呼ばれたジャズシンガーのヘレン・メリルが歌っていたりする。
父は「おざや節」のことを話したときに「座敷歌」と言っていた。「座敷歌」というのは三味線を伴奏に酒宴の席などで歌われる歌で、座敷で芸妓や遊女が歌うほか、庶民の宴会でも歌われた。「おざや節」のような労働歌は、本来歌われた労働の場が失われても、そうした場で歌い継がれていた。「五木の子守唄」は芸妓が歌った座敷歌がレコード化されて人気を博し、民謡として広く知られるようになった例だが、近代化の中で座敷文化が衰退するとともに、継承される場を失った歌もある。「おざや節」はまさにそうした歌なのだろう。
小学校の音楽の時間に、故郷の歌として「五木の子守唄」を聞いた時、あまりに馴染みのない歌だと感じて、全く耳に残らなかった記憶がある。
思い返すと、僕が小さい頃、祖父が親戚の宴会で何か囃子のようなものを歌っていたことがある気がする。あれが「おざや節」だったなら、音楽の時間に「おざや節」を聞かされていたなら、僕は祖父が歌い手だったことをもっと早くに知っていたかもしれない。
小学校の音楽の教科書には「コンドルは飛んでいく」が載っていた。
「コンドルは飛んでいく」は、サイモンアンドガーファンクルが1970年に歌ってヒットしたことで世界的に知られるようになったけれど、原曲はペルーを舞台にした歌劇の序曲として1913年に作曲されたものだ。その歌劇の内容は、1911年に起きた鉱山事故を端に発したアンデス先住民の労働者とアメリカ人経営者との間に起きた紛争を題材にした、極めて社会的なものだったらしい。1911年といえばマチュピチュが発見された年でもあり、アンデス高地の先住民の社会的地位の向上や、先住民文化の再評価がされていく大きな動きの端緒にあった。その後、インカ帝国の首都だったクスコには観光客も訪れるようになり、先住民達によりフォークミュージックが演奏され、外の人々に聞かれる機会も増えていった。
そんな流れの中でクスコで活動を始め、ニューヨークに渡り名声を得た歌手がいる。5オクターブの声を持つと言われた歌姫、イマ・スマックだ。
イマ・スマックは1942年に南米のラジオでデビューし、46年に渡米し、当時世界の文化の中心だったニューヨークでフォークソングを披露し始めた。当時のアメリカでは、異国趣味の音楽が流行っていた。「エキゾチカ」として知られるその類の音楽は、中米カリブ海、アフリカ、ポリネシアの音楽を元ネタにしたインストゥルメンタルのラウンジミュージックのような音楽で、アンデスのフォークソングを歌うだけでは、彼女が流行に乗ることはできなかった。
1950年、イマ・スマックは最初のレコード“Voice of the Xtabay“でアメリカでのデビューを果たす。“Xtabay“は中米ユカタン半島の神話に出てくる悪魔のこと。ペルーとは関係ない。かたやデビュー時の触れ込みは「インカ帝国王家の末裔」だった。音楽としてはアンデスのフォークソングは影ほどしかなく、いかにも「エキゾチカ」らしいオーケストラの演奏をバックに、イマ・スマックがひたすらその妖艶な歌声を披露する。
デビューは成功し、アジアやヨーロッパにツアーに回り、インカを題材にしたハリウッド映画にも出演して国際的な名声を得たイマ・スマックは、50年代を通じてエキゾチカのスタイルにアンデスの音楽を取り入れたレコードを発表し続けた。例えば54年の”Mambo!”は、その名の通り、キューバのマンボを下敷きにアンデスっぽいメロディの歌が差し込まれる変な音楽だが、今聴いても決して退屈ではなく、新鮮なレコードだ。
しかし、彼女の欧米人のインカへの憧憬を借りた誇大なプロモーションと、当時の流行におもねった音楽性は、ペルー国内のミュージシャンからは強い反発を受けた。59年にペルーへツアーに行ったイマ・スマックは現地で激しい敵意を向けられ、その後、70年代になってもペルーでの名声は落ちたままだったらしい。
72年の”Miracles”には、最後の曲として「コンドルは飛んでいく」が収められている。この時は、当時の流行のサイケデリック・ロック取り入れたアレンジだった。これを最後に、彼女はレコードの製作をやめてしまう。
2006年、イマ・スマックはペルー政府から褒章を受けた。齢80を超えた彼女は、招かれた公の場で歌を披露することはなかったが、人生最後のマチュピチュ観光に向かう列車の中でペルーの音楽家達とともに歌を披露したらしい。いったいどんな歌を歌ったのだろう?50年代のアメリカの特異な音楽としてあまり顧みられることのない「エキゾチカ」の歌手としてなのか、あるいは彼女のルーツである高地のフォークシンガーとしてなのか。
彼女の歌は、かつて拒まれた故郷のペルーで歌い継がれているのだろうか。
去年、ペルー産の温州みかんの輸入が解禁されて、早生みかんも出ない6月のスーパーにみかんが並んでいた。真冬の南半球から、初夏の北半球へ。
恐らくあまり知られていないと思うのだけれど、古代、中国から日本にみかんが伝来した地は八代の高田とされている。江戸時代に干拓が始まる遥か昔から、八代産のみかんは朝廷に献上されていた。
その後、16世紀ごろ、八代のみかんは和歌山の有田に伝えられた。有田で大規模な栽培が始まって、みかんは広く食べられるようになり江戸時代には「紀州みかん」として認知されるようになった。
その紀州みかんに取って代わられるようになったのが、現在「みかん」として一般的に語られている「温州みかん」だ。これは八代から不知火海を挟んだ南端の長島で生まれた品種で、明治時代に紀州みかんに代わり、全国で栽培されるようになった。ペルーに温州みかんを伝えたのは明治時代に始まったペルー移民の人々である。
温州みかんが広まる頃には、八代はとっくに、みかんの産地としての存在感を失っていた。みかん畑といえば、海に面した斜面にみかんの木が連なって、海と空から陽の光を受けている風景。みかん伝来の地だった八代の高田は、江戸時代の干拓の結果、海から遠く離れてしまった。
みかんに代わって八代を代表する産品になったのはい草だった。特に戦後、干拓地で主要な産品として生産されてきて、現在も日本一の生産量を誇っている。しかし畳の需要の減少や安価な中国製品に圧されて野菜のハウス栽培への転換も進んでいて、現在の八代は日本有数のトマトの産地でもある。干拓地特有の塩分を含んだ土壌が、トマトの糖度を上げるらしい。
妙な因果というべきか、そのトマトの原産地はペルーとされている。トマトはアンデスからメキシコに運ばれて改良され、16世期にヨーロッパに伝わってイタリア人が食べ方を考え、19世期にアメリカ人がトマトケチャップを発明し、日本で広く食べられるようになるのは昭和に入ってからのことだった。
祖父が僕の名前を忘れてから、僕は祖父の口からはもう語れられることはないだろう、祖父の歌と育った土地の歴史を遡るようになった。
伝承歌と、トマトとみかん。僕が生まれた八代と、僕が幼い頃憧れたペルー。2つの大地の、忘れられた経歴が交錯する。