ずっと、なにか決定的な書き出しを探している。
それは永遠に手に入らない青い鳥のようなもので、ときどき、酔っぱらったときとか走っているときとか風呂に浮かんでいるときとかに、ぼわんと影を見せる。これはっ! と羽をつまんでばばっとスマホにその片言を記しても、身体の紅潮がさめたあと、メモアプリに残された言葉からは結局何も始まらない。
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小さいときから書くことが好きだった。好きだと思いすぎて、「書きたい自分」が既成事実となって、結果的にどんどん書くことから遠ざかっている。
「書きたいのだが、書きたいことがない」。
欲求不満がこじれて臆病な自尊心に化け、早幾年。いよいよ獣の臭いがしてきたので、虎になってしまう前に、2ヶ月間このアパートメントの一室にこもらせてもらうことにした。
さながら缶詰気分でも、密室でどうどう巡りはつづく。書きたいのに書けない。部屋中を巡りながら壁をなぞっているうちに、ついに初回から締め切りを過ぎてしまった。
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書くという行為自体から遠ざかっているわけではない。むしろもう10年近く、書くことを仕事の一部にしている。
最初に入った会社は出版社だった。編集といいながらもライターも兼ねてるような職場で、毎月何本と原稿を上げていた。転職先も、書くことの多い仕事で、ウェブに載る記事を夜な夜なつくっている。
これについて書いてねってテーマがあれば、手は止まらない。
でも、「なんか書きたいことないですか?」と問われると途端に目が泳ぐ。前職の出版社では企画会議が憂鬱だったし、転職活動中に受けたメディア企業でも「これについて書くなら負けないって分野、ありますか」と迫られてうつむいてしまった。
好きなことはいろいろあるけど偏愛ってほどでもないし、豊かな生活を送っているわけでもない。
それでも、受けて請け負って書くのでなくて、我がものを書きたいという欲求が枯れない。もう四番目の生理的欲求だ。
小学生のときはむしろ、書き出すことが楽しくて、いくらでも湧いてきて、白い紙を折って端をホチキスで3箇所留めた即席製本に、終わりなき物語を書き殴っていた。
中学生のときも、ワードにいっぱいファイルを溜めて、手製htmlのホームページに投稿し、相互リンクした先の人たちと感想を送り合っていた。
でもそれが、書き出しにすら辿りつけなくなったのは、いつだろうか。高校生か、大学生のころか。
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堰き止められる。
書きたい気持ちが湧いてもすぐさま、これは面白いのか?意義があるのか?これよりもっと面白い旅行記をこないだ読んだじゃないか?語れるほど愛してなくない?いいのかそれで?気持ち悪くない?せめてもっと寝かせては?今日はともあれ眠ろう。
で、眠ってしまう。
シャンプーの口にカスがたくさんこびりついて固まって、ポンプを押してもカスを突破できなくなった、つっかえて、だんだんどうでもよくなる。その繰り返しだ。
太宰治が、郷里の名士が集められた座談会に呼ばれたとき、他の参加者が立派すぎて何を言えばよいか分からなくなり、自己紹介で自分の番がくるあいだひたすら混乱したというくだりで、こんなことを書いていて、
唐突に、雪溶けの小川が眼に浮ぶ。岸に、青々と芹が。あああ、私には言ひたい事があるのだ。山々あつたのである。けれども、急に、いやになつた。なぜか、いやになつた。(善蔵を思う)
そうそう、まさにこういう感じ!私もいやになるのです!と思った途端、それすら最早いやになる。だってこんな悩みですら、やっぱり太宰治がすでに巧く書いてるじゃないかと(そりゃそうだろ)。シャンプーよりは芹ではないかと。ポンプのカスよりは雪溶けの小川じゃないかと。酩酊して混乱しているくせにずるいぞ太宰治。そうやって、書こうとしていたことはどんどん枯れていくのが常だった。
目が肥えてしまって、不遜なほど理想が高くなって。
べつに書きたいことがないならば無理して書かなければ良い。そんなことは分かっている。書きたいという気持ちが肥大している人よりも、書きたい事柄が先に立って溢れている人の文章のほうが、断然面白い。巧拙じゃないのよ、したたってるかどうかなのよ。そんなことは分かっている。
のだが、でも書きたい。眩しいほど、尊大な羞恥心。
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思えばこんなことに、10年前も悩んでいた。
ちょうど二十歳のころ、大学のサークルで本を出すことになり、寄稿文を書くに当たって、まったく同じように、書きたいことがないと悩み、書き出しに苦悩していた。
私は先週30歳になったけど、10年ごとくらいに、同じことを繰り返すのかもしれない。
……だとすればもはやこれは通過儀礼なのではないか。10年ごとに、手をかえ品をかえ、書けないことを綴って祓わなければならない。禊ぎである。
と、ぶつぶつ呟いていたら友人が投げやりに言った。
「野菜については?」
ん。
「連載のテーマに悩んでるんでしょ。野菜は?大根とか。好きでしょ」
いやいやだから好きって言っても偏愛しているわけじゃないし、大根よりは白菜のほうがまだ毎日食べてるし。むりむり。
……本当に?
これは書けないということについて苦悩して書くという通過儀礼なのだから、ここではそれ自体が意義であり、偏愛よりは “そこそこ愛” のことでも、さして珍しくない個人的なことでも、堰き止めずに書くことが、儀礼の完遂にあたっては肝要なのではないか。大根でも白菜でも。
なんだその言い訳は、と思いつつ、そう考えるとだんだん楽しくなってきた。
そういえばこの友人は、大根の煮物が大嫌いだったが、この人について書くのも面白い気がする。
書き留めておきたかったけど放置していたことや、記憶の褪せつつある旅行について、好きだけど好きと言えずじまいだったものは、ぼうっと考えてみると多くある。決定的な書き出しは導き出されないとしても。
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壁をなぞる手を止めた。これは、書きたいという欲求に向き合う、リハビリとは違うし練習でもなく、アパートメントの一室でひっそりと行われる通過儀礼だ。
息巻いた呼吸をととのえ、湯に手を浸して
あと7回分、何を書こう。