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2F/当番ノート

数字としての自分と大人になるということ

当番ノート 第61期

前回、今の自分にとっての自分語りの位置付けについて話した結果、正直何を書けばいいのかわからなくなってしまった。しかし連載は続いている。もはや自分の言葉に何の価値も見出せないのに、人様に感想までいただいた上で掲載されるのが苦痛だ。表現したいという欲求が消えているのに白いページを埋めていくのは多方面に失礼な行為ではないのかと己に問いかけている。

一週間悩んだ結果、どう転んでも私には私の話しか書けないという結論に至った。こうなったらもう開き直ることにし、みっともない自分語りを続けていく。

ライターを諦めてから、少しの変化があった。コンテンツを見れば面白かったと言う批評性に欠ける人間を好まないような矜持が消えつつあるのだ。だが、インフルエンサーに群がって人生相談のスパチャを投げるような都合の良い消費者の位置にいたくもない。受動的な享楽者をいくらでも優しく堕落させてくれるオンラインとどのように付き合っていけばいいのかわからないでいる。

私には物語を作る才能がない。かといって、目が覚めるような新しい読み方を提示することもできない。批評家とは挫折した作家のことだ、とかどこかで読んだことがあるが、批評にも創造性が必要だということだろう。作家にも批評家にもなれないのに、ただ享受する側にいるのも歯痒さを感じてしまう。

作家になりたい時期はなかったが、何に違和感を覚えたか、どんな作品の影響を感じたか、演出はどうだったか、この時代にこれが生み出された背景と意味など、ユニークな切り口で感想のその先を語れる人間にはずっと憧れていた。一方、最近は「できるだけ頭を使わないでだらだら見ていられる」ことを条件に作品を選び、短期間でアニメを二年分消化した。着実に過去の自分がなりたくなかった種類の人間になりつつある。

この一連の流れを何者かになりたくて仕方ない状態からありふれたつまらない自分を引き受けることができたんだね、大人になったんだね、と言って片付けるのは簡単だろう。でもそれで本当にいいのだろうか。別にもう自分自身を曝け出すことで成り上がりたいわけでは全くないのだ。でも、つまらない自分の中を覗き込んで何かを探す以外の関わり方で、創造する側にいたいと少し思ってしまっている。

オンライン上のフォロワーとしての私はただの数字だ。数字ではなく、人格を帯びた存在だと主張するには方法は一つしかない。自分も発信する側になることだ。表現したいこともなく、表現する方法も持たないのに、ただ誰かが血反吐を吐いて生み出した作品を一方的に浴びる屈辱を味わいたくない。このなんとも中途半端な現状を情けなく思う。ただ、自分の在り方は常に自分自身で選べることもまた確かだ。私は創造者ではないが、完全な消費者に成り下がることはしたくないらしい。この中途半端で宙ぶらりんな日常綴りが抵抗だなんて純朴に信じられるわけはないが、自分にはどうせ何もないと諦めたくもない。ジリジリと目を凝らすことはやめない。特別でない人間にもそのくらいは許されているはずだ。そういう意味では、矜持を手放してはないのかもしれない。

滝薫

滝薫

ライター兼福祉の仕事がしたい人。アロマと料理と編み物が趣味というナチュラル丁寧加減ですが、本人は結構辛口です。

Reviewed by
スズキコトハ

疲れすぎない方法を覚えた、ではきっと納得はいかないだろうが、第三者的目線で文章を読むと、何も捨ててはおらず、ただ不本意な形であれ心が休息を求めている時に身体にそれを反映させているようにも思える。
クリエイターの知人たちは絶えず何かを生み出しているかといえばそうでもない。ぼーっと一日中映画を見ていたり、ゲームをしてみたり、他人の創作物にどっぷり浸かって休日を満喫しているらしい。もちろんその中でインスピレーションを受けたり、もやっとしたりすることはあれど、完全なる消費者でいる。
何者でもないわけではなく、その時のコンディションによって自分の置き所を決められるようになった、でもそれが歯痒いという「何者かの休日」を受け入れる最中にあるのではないのかと感じるのだが、単に私が呑気なだけなのかと考えさせられてしまう記事である。

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