最初に書き添えておきたいが、私は「コンプレックスや障害について」書き綴っている人を否定したいわけではない。ただ今の私にはフィットしないものだと言いたいだけだ。
他人が読んで面白い、価値があると思うものを書く能力があるという自負が消えつつある。あれほどエッセイという分野にこだわり、自分のことしか書けないと言い張っていた過去を振り返ると、信じられない気持ちが大きい。しかし、今となってはみなぎっていた自信の源を探ってみたい不可解さでいっぱいだ。心境の変化に伴い、フェミニズムや障害学など、今まで興味関心が深かった人文学への執着があまりなくなってきた。
「なんでもないありふれた私」が、「コンプレックスや精神障害の話をする」ことに意義や面白みを感じない。私の話を書いて誰が得するんだろうと自問自答してしまうし、かといって日常のあれこれをユーモラスに綴ることも別に私がしなくても多くの人間がやっていると冷静に思う。
膿出しに飽きたというのがシンプルな結論だろう。内省や自己分析をしすぎた。見つめる鍋は煮えないという段階に入ったのだと思う。内的世界よりも外界に出て、のびのびしたい。新たな刺激が欲しい。個人的なことへの寄り添いよりも、もっと強烈で鮮やかなインプットを求めている。私にとって私はもはや解き明かしたい対象の謎ではなくなったのだ。
自分の「ありのまま」を詳らかにすることで誰かの共感や承認を得られる、ひいては社会を動かす何らかの力学を作用させられる、と思っていた幼稚な傲慢さを思うと、そもそも「ありのままのなんでもない自分」なんて認めておらず、何者かに成り上がろうとしていた余裕のない自分が見えてくる。Twitterやエッセイで自分の言葉を吐き出すことは私にとって切実な社会参加や一発逆転のチャンスで、実際に繋がることができた人々やいただいた言葉も多くあった。しかし、細切れにした人生のコンテンツの寿命は短いし、仮に認められたとしても、その快感の効き目は短いのが現状だった。
フェミニズムをはじめとした学術的な知識は、現実からワンクッション自分を切り離して整理する力を与えてくれた。気に食わない現状を毒親や性差別された経験、精神障害のせいにできた。マイナスをゼロにする作業をずっとしていたのだと思う。自己責任論で自分を攻撃しないように沢山の理論を頭にぶち込んで武装して、社会に怒りの矛先を向ける。しかし過去を解き明かしても、いくら理不尽な状況に怒っても、毎日の景色は変わらなかった。
勉強は現実と向き合う強さをくれた。でも、少し先の明るい未来をイメージする力は読書によって培われたわけではない。なんとなくの直感にただ従う向こう見ずさは、努力して手に入れたというより生来のものが顔を覗かせる余裕が出てきた、と言う方が正しい。シンプルな啓示めいた力が希望よりも力強く、私をどこかに連れて行ってくれる気がしている。