1993年にブリュッセルに住み始めたその10月の終わりに大雪が降ったのを体験して以来(しかもその日はゼネストの日と重なっていた)、ベルギーの天気というのは異常気象が基本なのだと思ってはいるのだけれど、年間を通しての日照時間の少なさだけはマジ勘弁してくれと思うことは本当に多く、それは日常茶飯事だ。いや、ここは「日常麦酒揚芋事」とでも言ったほうがいいだろう。
今年も例年に違わず、7月に入っても最高気温が20度になるかならないかという肌寒い日が続いていたりしたのだが、後半、まるで人々が夏休みに入るのを見計らったかのように暑くなってきた。
ここしばらくの間、かなり無茶振りのやきものの注文にかかりっきりで骨身に浸み入るほどの疲れが溜まってきてるのもあって、今年はちゃんと休暇を取ることにした。何年ぶりだろう、こんなの。
バカンスという外来語は恐らくフランス語から取られたもので、休暇という意味では英語ならHolidayだろうけど、語源的に近い言葉はvacancyだろう。要は空っぽという意味で、voidとかvacuumとかのVがつく中空系のやつらの仲間らしい。頻繁に使わせてもらってる語源学サイトによれば以下、こういうことらしい。
vacancy (n.)
1570s, “a vacating;” c. 1600, “state of being vacant,” from Late Latin vacantia, from Latin vacans “empty, unoccupied,” present participle of vacare “be empty” (see vain). From 1690s as “a vacant office or post;” meaning “available room at a hotel” is recorded from 1953. Related: Vacance (1530s); vacancies.
休暇とか祭日というのはそれまでの疲れを癒し、ついでにそれまでに溜め込んだ富を蕩尽するためのものだ。「疲れ」という日本語が「憑かれ」に通じていることを考えると、要は正負にかかわらず色々な累積をチャラにしてしまうための期間な訳で、そういう意味では休暇をヴァカンスと呼ぶのは理にかなっている。
そして、外から眺めるにつけ、日本の社会はもう少し「空にする」期間を大事にした方がいいんじゃないかと思ったりする。経済的にも社会的にも政治的にも精神的にも肉体的にもいろんなことを溜め込みすぎているように見えるニュースがひっきりなしだ。
まあ、そんな他人事を心配しているふりをしてみても何にもならないわけであるし、ぼくはぼくのヴァカンス中でもあるので、今回は最近、友人のために書いた文章を転載して、お茶を濁してしまおうと思う。
とはいえ、一応、その友人のことは書いておこう。長良将史という。
長良君とは2014年末に藤本隆行演出、チョン・ヨンドゥ振付けで作られた『赤を見る』という舞台作品の制作期間に会った。ぼくはパフォーマーとして、彼はヴィデオ映像製作担当で参加した。作業に入る前の用意、作業に入ってからの現場での卒意の行き届いたディレクション、その間の気遣い、気遣いながらもやりたい方向は確固としている、そういう仕事ぶりに好印象を持ったものだった。
その後、大阪の友人宅で鍋をやった時に来てくれた際に、あれこれ話したことがあって、その時は色々将来のことを思いあぐねていた様子だったのだけど、その後突如として映像の「お仕事」をやめてアーティストとしての活動に全面的に身を投じるという好ましい暴挙に出た。最近はこういう暴挙に出る人を周りに見なくなったので、よっしゃよっしゃと彼のSNSでの膨大な投稿を眺めながら無責任に思っていたところ、本人から展覧会用の文章をお願いされた。ぼくもそういう暴挙を時々やらかしてきた方なので、若い同志が出現したことに励まされるところもあり、励まし返しをする意味でこの文章を書いてみた。ちょうどこの原稿が公開されるときにはその展示会は終わっているらしいのだけど、これからもどんどん作ってどんどん発表していくのだろうから、これから長良くんの名前を見かけることもあるかもしれません。その際はちょっと目を向けてみてくださいませ。彼はきっとこれからどんどん面白くなるでしょう。多分。
そしてみなさん、良いヴァカンスを。
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長良くんの「遺影」を言祝ぐの辞
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言うまでもなく、生きとし生けるものすべての死亡率は100パーセントだ。言うまでもないことであるにもかかわらず、忘れやすいことでもある。普通は生きている状態が普通だと感じているからだ。そしてそれはごく普通のことだ。
だけど、例えば「メメントモリ」という言葉や、それにまつわる例えば死の舞踏のイメージを思い浮かべるとか、例えばそれをタイトルにした藤原新也の写真集を眺めるとか、また、それに関連して例えば一休宗純の正月の髑髏と「御用心、御用心」のことを想うとか、または身近な人の死に直面するとかするとき、改めて人はやがてその人生が収斂していくことになる一点の不動な確実さを突きつけられ、ふとそういう本来唯一の当たり前のことこそが忘れられているのだということに気付かされ、そこでやっと自分の生のことも思い出す。あ、生きてるんだ俺、そういえば。みたいな。
人はなかなか物事の両面をいちどきには眺められないのもらしい。けれど、一点を凝視することは比較的やさしい。凝視すれば自ずから反対のことが浮き上がってくる。凝視し続ければそうやって一つのことが反転し続け、その両面の様相を代わる代わる現してくる。そのようにして生きた思考というのは生まれてくるのだろう。
人は歩くときに必ず前方にバランスを崩しながら移動していくのだし、体重のバランスが均衡状態にあるときはそこにとどまっているしかない。物事の両面を均等に眺めているだけでは行動に至らないということでもある。進行形の生は偏っているものなのだ。しかし、だからと言って、前のめりに傾いているだけでは暴走するだけだ。だからこそ立ち止まることにも、考えることにも意味がある。均衡と不均衡を繰り返すことで生は死への暴走を避けている。時々は立ち止まるべきなのだ。凝視するために。そして再び動き始めるために。
そして、重力に縛られながら在る身体的な意味でも、社会に組み込まれた個的意味でもそれが行動を起こす、つまり前のめりにバランスを崩すきっかけになるのは大きく分けて二つあると思う。好奇心と危機感である。これらをうまく使って人為的に構成されるのがゲームであり遊戯であり、それが実生活でも起こっていると観れば人生そのものが遊戯であるともいえる。
そういう意味で長良くんは、「お仕事」になってしまっていた映像製作を一旦リセットして、彼の好奇心と危機感を彼なりの遊戯にした上で、前のめりに倒れ続けるとはどういうことかを体感し、思い出したくなったのだろう。そういう感覚を失ったまま、そのことに気づかないふりをし続けながら作っていくことはできなくはないけど、それで得られるものに比べて、引き換えに失っているものの大きさに気付いてしまったとも言えるだろう。
もうこの辺りに来ると、全くぼくの想像というか空想で書き進めているのだけど、そうやってリセットしてみた後で、長良くんは自分が持っている道具やスキルや好奇心をできるだけ有効に使ってみることを優先してみたのではないだろうか。「お仕事」で小器用にあれこれこなすのではなく、自分の持ち物を自分の好みに徹して使ってみたらどんなことになるのか、試しまくってみたくなったのではないだろうか。で、やってみたら止まらなくなった、みたいな感じなのだろう。
私事で恐縮だが、以前とある公園を散歩していた時、ふと目の前の池を見て、沈む前に足を前に出し続ければ水の上を走れるんじゃないだろうかと思って、本当にやってみたことがある。もちろん見事に走り抜けられたわけはなく、当然ずぶ濡れになって笑い物になったのだが、去年あたりからの彼の作品作りの物凄い勢いをSNSで眺めていると、水面を走れてるくらいの勢いだなあ、とか思う。もしくは『コインロッカーベイビーズ』の「最初に立ち上がった猿」のあの感じだろうか。
“倒れまいとして次々に足を前に出す、それが走るということだ、全力疾走をすれば決して倒れることはない、最初に立ち上がった猿は、きっと全力で走ったんだ。”
長良くんのこの疾走はしばらく止まらないんじゃないだろうか、とか思って、おいおい大丈夫か、どこまで突っ走るつもりだ?と、ちょっと心配しているような振りをして羨ましかったりする。そして実はあんまり心配なんかしていない。そのまま放っておいたらいずれぶっ倒れて下手をすれば全治2、3週間くらいの大怪我するに違いない村上龍の猿とは違って、一応彼なりのペース配分も心得てるみたいだし。
好奇心と危機感を道具とスキルでカタチにしていく遊戯。(ちなみに、カタチというのはチという根源的で流動的な霊力が凝固した状態を表す。)何かがカタチになった瞬間に調和が舞い降りる。それとともに何かが均衡にとらわれる。作り続けるということはその均衡に抗いつつ次の均衡に向かうという矛盾の連続だ。そんなもの、物語か遊びにしなきゃいつまでもやってられない。ただ、そうする方法さえ見つかれば、遊ぶネタには事欠かない。方法を見つけてそれを使ってみること自体が重要で、その結果出てきたものがアートかどうかなんて二の次だ。その方法さえあれば宝くじが当たらなくたって、まさに「遊んで」一生暮らしていける。今ちょうど、そんな気分じゃないのかな、長良くんは。いずれ近々ベルギーでもその雄姿、じゃなくて遊姿を見せて欲しい。待ってるぜ。
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