とある事情でいま「写ルンです」が仕事場に100個届いておりまして、ぼくも1個使ってみました。あまり話題にもならないのですが、コンビニに行くと、「写ルンです」は、ほぼ間違いなく今でもコンビニに行けば買うことが出来ます。
早速仕事場の周りをちょっと写して回ろうと出かけたところ、15分もしないうちに、1本撮り終わってしまい、今2個目のパッケージを開けたところです。果たして何が写っているのか、ちゃんと撮れているのかも現像するまでは良くわからないのですが、よく晴れた日に小さなカメラを手に、子どもが虫取り網を振り回すがごとく、光を追いかけて軽やかにシャッターを押すのは、それだけでも充分楽しい。
四谷四丁目の交差点の一角には、近所に住んでいる造園家の方だと思うけれど、綺麗に手入れした小さな植え込みがあります。その植木に赤い実がいくつもなっていました。青信号を待ちながらなんとなくそれを眺めていると、通りすがりの女性がスマートフォンでそれを熱心に撮影している。交通量の多い大きな交差点での信号待ちの合間に見かける赤い実は、確かにそのひととき心を和ませるものがあり、思わず写真に撮りたくなります。
さて、このまだ現像すらしていない写ルンですに収められた図像や、彼女が撮影した、或いはぼくだって撮っていたかもしれない赤い実の写真は、一体この先どうなっていくのであろうか。
ぼくの場合、この写真はたぶん誰にも見せないと思う。なぜかといえば、ぼくはシャッターを押したことで、その欲求はほぼ達成してしまっているからである。何かを表現したかった訳ではなく、写真を撮る事自体が楽しいと思っているのです。
夏の間、いくつかの作品講評の場面に立ち会いました。そこに集まっている写真家志望の人との会話を思い起こしますと、表現以前に、写真を撮る、シャッターを押すことが最大の面白さであり、楽しさだと考えている人が実に多いと感じました。もちろん、それもひとつのお作法だと思います。しかし、写真表現に於いてシャッターを押すというのは、創作プロセスのごくわずかな部分でしかありません。あらためて自分が素晴らしいと思えるいくつかの名作と呼ばれる写真作品を思い浮かべたとき、撮影のひとつひとつは、楽しそうに思えないものも意外と多いのです。シャッターを押すこととは単調な反復運動のようなものであって、作家さんがこれと決めたルールに沿って徐々に写真の数が増え、プリントを見ているうちに、自分なりに他者に示す意味を感じることが出来たり、数が集まってくるうちに、撮影時とは違った面白みを感じていったりと、制作プロセスの過程で気持ちの高揚を感じる場面とは、撮影の瞬間よりもずっと後に数多く隠れています。
1990年に森山大道さんが、大阪芸術大学の特別講演会にお見えになった時、私は大教室の後方でただふてぶてしく話を聞いているだけでしたが、「写真には、色々な出会いの瞬間がある。レンズを向けてシャッターを押したときだけではなく、現像の終わったネガを吊るしながら見るとき、引き延ばし機のランプハウスを上下させているときでも、新鮮な出会いがある」ということをお話されていたのがとても記憶に残っています。
表現の鉱脈と出会うタイミングには時間の幅が存在することを知っていると、写真の選び方や読み取り方にも柔軟性が出てくると思います。他方、写真撮影の瞬間しか出会いのポイントがないと思い込んでいると、単に眼の刺激を追いかけるようになりがちですし、既に自分の撮影したカットに含まれている表現のうまみ成分に気づけない。これは惜しい。
あっという間に撮り終わってしまったぼくの「写ルンです」。まだ現像していないんですが、結構いい写真が撮れている筈なんです。現像してきちんとプリントを作ろうと思っていますが、それだけでは他人に見せる動機にはならないのです。
スーツの裏地に色鮮やかに虎の刺繍を入れてても決して人に見せびらかしたりしないように、ぼくの撮影行為はいまのところ個人的な楽しみの範疇なんです。