路上でぺたんこになった小動物を見つけた。ぺたんこすぎて何なのかもわからない。
子猫にしては尾骨が太すぎ長すぎだし、頭が小さすぎる気がする。そもそも轢かれて伸びてしまっているので生前のバランスがすでによくわからないのだが、猫でないならイタチの類ではないかと思う。死後かなり経つらしく、骨煎餅のようにカラカラに乾燥している。
少し前にも平らになった亀を見つけたばかりである。材質からして亀以外にないはずだが、轢死時の奇妙に捻れた力加減の結果か、亀とは似つかぬ、未知の生物のような姿になっていた。三角形のアルマジロがいるとしたらそれ、みたいな。
かと思えば、何で死んだのかわからない、綺麗な死骸が転がっていることもある。
前にここに書いた鴉もそうだが、最近はセンダイムシクイという美しい鳥が、何の外傷もなく眠るように死んでいるのをみつけた。駅前のビルの脇の歩道である。いかにも人に踏みつぶされそうな場所に落ちていたので、ビルの入り口の植栽のそばに移動させておいたが、翌日になっても鴉の餌にもならずそこにあった。鴉も飽食でいまさら小鳥の死骸など興味もないのか。
ひところ、ずっと地面を見て歩いたらどれくらいの死骸を発見できるだろうか、と下ばっかり見ていたことがある。羽化し損ねた蝉の幼虫、アスファルトにすり潰されるようにへばりつくゴキブリ、仰向けの雀、腹のつぶれた蛾、羽の折れ曲がった蝶、クラッシュしたカナブン、敷石にひっかかったまま力尽きたオサムシ、干物のようなトカゲ、鴉に襲われたのか手羽だけになったハト・・・大都会の大阪市内でも、けっこうな数の死骸に会う。
それらはもう死骸なのに、見ている僕はまだ死骸ではない。
何らかのエネルギーの循環の経路にまだいる僕と、その経路から外れた死骸たちがあり、僕もいつかはこの循環から離れていくことになる。目の前の死骸と僕の間にあるのは、ただタイムラグだけだ。
イタチにせよ亀にせよ鳥にせよ、ぺたんこであれ綺麗なままであれ、「何かに食われる」という最期を遂げていないことの不思議。野生の動物には、基本「天寿」というのはないはずである。何かの餌となって一生を終えるのが生物の本道である。
が、都会では、食われる前に事故に遭ったり、へんなものを食ったり、何者の餌にもならず死ぬという、動物まで人間みたいな死に方を強要される。循環すべきエネルギーが循環せずにブツブツに切れる。
人は死んだら土にも還れず、煙と化す。壮大なエネルギーの循環を、一瞬で大気に熱を放つだけで終わらせてしまう。
せめて死後の時間も何かの中で、少しばかり世界に参加していたいのに、というのはヌルっちいノスタルジーでしかないのかしら。
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僕は妄執だけでもこの世に残したいタチです。