■1
小学生の頃、僕は絵が得意だった。
田舎に帰った折、親戚のおじさんが若い頃描いたという映画スターの似顔絵(きちんとしたデッサン)を見て対抗心を燃やした12歳の僕は、手近にあった雑誌に出ていた仲代達矢の写真を見てノートに鉛筆でデッサンした。
かなり時間を掛けて、自分では上手く描けたと思ったが、それを見た祖父が
「あかんぞその絵は。眼が死んどる」
と言う。
いやそんなことはない、どこから見ても仲代達矢そっくりの、ちゃんとしたデッサンではないか、と僕は納得がいかない。
「学校で画龍点睛って言葉を習わんかったか? なんか上手く描いたような絵やが、眼がな、死んどるわ。そこがいかんわ」
たぶん絵の技術的なことなど祖父にはわからなかっただろうが、おそらくその仲代達矢の絵には、半端な器用さに慢心したクソガキのいやらしさのようなものが滲み出ていたのだろう。
技術的に眼の輝きが描けていない、とかいう話ではなく、そういう幼稚な驕りのようなものをたしなめられたのだと思う。
当時はわからなかったが、今ではそう想像がつく。
■2
龍を昇天させる最後の一筆は、それによって調和が完了するのではなく、あくまで「過剰な」一筆でなければならないのではないか。
閉じるための一筆ではなく、破るための一筆。完成ではなく、逸脱のための一筆。
過剰な一筆が降りて破調をきたす瞬間にこそ宿る光のようなもの。
■3
「途上に在る」こと。
追う先の空漠を知りつつ追うこと。
そういう意味からすれば、睛(ひとみ)を欠いてこその画龍である。
龍も逃げる。易々と睛を点(う)たせてはくれない。
龍も自分も途上の者である。
■4
写真とは目の前の光景に睛を点ずることなのか。
もしくは点睛を欠く世界を見続けることなのか。
photos : -from 「myself (and others)」2006 kamauchi hideki-