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3F/長期滞在者&more

ヴェニスでの出来事。

長期滞在者

ものすごく久しぶりの投稿です。7ヶ月ぶりです。
何年かに一度やってくる活字拒否期間がしばらく続いていて、読むのも書くのも全く気が進まない時期が続いています。
とは言いながら、そういう時期は大体生活がなんとなく茫漠としてくるのが常なので、
たまには文章にして、身も心も整理整頓する作業は必要であるなあ、とも思うのも確かなのです。

ぼくは一応ダンサーというか振付家というかパフォーマーというかが本業なのだけれども、
今年の1月に友人に誘われて参加した作品を最後に、その仕事から足を洗おうと思っていました。
実際の所、未だに迷っている所もあるんですが、とある人物にパフォーマンス作品を依頼されて、
製作に関わった上に自分もまた出演してしまいました。

舞台はイタリアはヴェニスにあるパラッツォ・バルバロという真正のバロック建築の広い廊下。
コンセプトは「Destroy the Picture, Painting the Void」。
音楽はバロック音楽のアンサンブル、il pomo d’oroによるヴィヴァルディの「四季」抜粋と、オペラ歌手で現代音楽作曲家でもあるミレイユ・カペルさんの新作。
パフォーマーは長年のぼくの友人であるミーシャ・ダウニーと社本多加とぼくの三人。
そしてこのイベントの仕掛人はアクセル・ヴェルヴォールト氏。

改めて書き出すと、すごいメンツです。こういう人達と一緒に仕事ができてとても刺激的で学ぶ所も多かったわけですが、
実はこの仕事の依頼を受けた時、初めは制作だけに関わって裏方に徹しようと思っていたのでした。
そんなぼくの気が変わったのは、ヴェルヴォールト氏とミーティングを重ねていたときに彼が「技巧的な事は別に見たくはない。ただそこに人の存在がある事が、(日本語で言う)「間」の様な緊張感を持って体験できるようなイベントにしたい」と言うような趣旨のことを言った時でした。ぼくは技巧的にはもうとっくに「ダンサー」としての技量を失っていると思っていたし、あるのはただ人としての経験だけで、それをダンス作品にする事にも疑問を持っていた所だったのですが、そういうものをこそ見たい、という芸術界で百戦錬磨の人物の言葉に「それならおれもやってみたい」と思わされてしまったのでした。

このパフォーマンスに至るまでのリハーサルは、ダンサーのみで3回、ミレイユと一緒に一回、他のミュージシャンとは本番直前の二日間で2回という少なさで、ダンサーの動きはすべて即興にしました。
ヴィヴァルディの「四季」という、手垢に塗れた感のある楽曲と全くの新作曲の間の緊張感は非常に強く、特に「四季」にどう対峙するかはダンサーの3人でかなりの試行錯誤を必要としました。
その中で様々なタスク(お題)的なものが確認され、リハーサルを重ねるごとに感覚のチューニングといったようなものも深まり、最終的に本番を行った際にぼくが感じたのは、ジョセフ・キャンベルの著作にあるような一つの神話的な内面的な旅のようなものでした。
ぼくは即興作品というものを作った事も、そういうものに参加した事もほとんどなかったのですが、終演後に、ある意味でこれこそがぼくが「ダンス」に求めていたものだったのだという感慨を持ちました。

「ダンス」というのは作り出すものなのだろうか?
「ダンス」というのはもっと存在から溢れ出てくるようなものではないんだろうか?
「ダンス」というのは「作品」であることから逃れて行くようなものではないんだろうか?

ぼくが求めている表現というものがあるとすれば、(以前からずっと感じていた事ではありますが)おそらく存在と現象の間にあるような何かなんだと思います。
それを実現するために、ぼくにとってダンスがまだ有効な手段であることが気づけたという意味では、
今回のイベントに参加できたことはとても有り難かった。
自分の身体や精神がそのために十分なメディアであり得るかどうかについては、まだまだ自問自答が続きそうですが、
とりあえずこのパフォーマンスの企画自体は、公演自体が好評だった事もあり、続いて行きそうなので、
しばらくはそこに積極的に参加しながら、「存在と現象の間にあるような何か」を見極めて行こうと思っています。

このように一仕事が終わったところですが、これからフランスに向かい、今度はやきもの三昧の生活に突入です。
今回ダンスを通して気づけた事を土の上に焼き付けてみたいと思っています。

ではまたいつか。

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ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

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