入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

YOU TOUCH ME, I TOUCH YOU

当番ノート 第30期

皆様こんにちは。HALです。いかがお過ごしでしょうか。私が住んでいるポズナンでは町中がクリスマスを待ちわびているぞ!といった雰囲気に包まれております。各家庭でのクリスマスの準備に向けた気合の入り方も尋常ではない感じです。そんな状況を背中に感じながら、本日の投稿では、私が芸術作品を作りたい、アーティストになりたいと思った動機について少しお話しさせていただきたいと思います。

子供の頃、それは小学校に入学する前ですから本当に昔の話ですが、家には、様々な美術館や博物館の図録が置いてありました。両親の話によると私はその中でも特に、あるロシアの美術館に所蔵されているキリストのイコンを気に入り(本当に気に入っていたのかどうかは不明)、それを毎日何時間も見続けていたことがあるそうです。私の記憶の中では、恐竜の本や働く自動車というショベルカーなどが図解されている本を何時間も見ていた記憶はあるのですが、キリストのイコンをずっと見ていたというそのようなエクストリームな記憶はすっかり抜け落ちていました。イコンというものは、今見ても何か名状しがたい不思議な感覚を与えてくれることがありますが、その時は幼いながらにそのイコンに何か心を掴まれたのかもしれません。(笑 

私は今まで、この、芸術作品を前にして心を掴まれるという体験を何よりも大事にしてきました。それは、作品に触れる時の態度においてという意味だけではなく、日々生きている中で何よりも私にとって大切なことでしたし、今でもそうです。それは、絵画や彫刻などの美術作品だけではなく、あらゆる表現に触れる時に起こるものです。何かに触れ、それによって心を掴まれる時、心は自分でコントロールできないほどに揺り動かされます。これは私たちの中で絶対的な体験であることは間違いないにもかかわらず、その体験を語り伝えることは非常に難しいことではないでしょうか。もうしかしたら、ただ「すごかった」、「きれいだった」、「素晴らしかった」、「楽しかった」という、もっとボキャブラリーはないのかと要求されそうな感想が自らの体験の翻訳として発せられるかもしれません。

例えば、先ほどのイコンの話に戻りますが、イコンのような宗教芸術を前にして、人は感情の昂りを抑えることができず涙を流すことがあるでしょう。それはイコンに限らず、例えば、仏像や神像を前にしてもしばしば起こることです。人々は、それらの像やイメージを前にして心が浄化されるだけではなく、何か神聖なもの、あるいはまさに「神」と呼べるものとの出会いをそこに見出す事さえあります。もちろん、事前の知識や理解を持って接した結果そのようなことが起こるのかもしれません。その像がなんであるのかを理解し、その像が置かれている文脈を理解し、かつその宗教を信じているからそのような信心深い体験を得ることができるということです。もちろん、そのようなことはこのような宗教体験において非常に重要な要因であることはわかりますが、それはそうだとしても、やはり、何かそのような要因を超えて、作品が私たちの心の内奥に入り込み心を揺さぶる、そして何か神聖なものを見たという体験を私たちにもたらすことがあるのではないでしょうか。私はそう信じています。

私は高校生の頃から将来アーティストになると決めていたのですが、その実現はなかなか思い描いていた通りにはいきませんでした。その頃、作品を作るならば映画だ!映像と音楽という自分が欲しい要素が全て詰まっている映画しかない!と意気込んで映画大学に入学してはみたものの、技術は習得すれど、結局自分で何が作りたいのか全く形にできないことに苦しむ日々で、途中であえなくリタイヤしてしまいました。とにかく私の頭の中では自らの芸術体験によって蓄積された感動とそこから派生するイメージの渦がカオスのように頭の中で渦巻いていました。これを映画によって外部化することこそが私の目的だったのですが、そもそもそのような混沌としたイメージに形を与えるなど到底できる話ではありませんでした。つまり、その時の私には自らの体験に向き合うだけの手段を何も持ち合わせていなかったのです。もちろんアーティストの中には、自らの感動体験をそのまま自分の作品へと昇華させることができる、ある意味ですごく器用な方がいると思います。しかし私の場合には、まず自分が欲しているものを一度自分自身で論理的に理解してみることが必要でした。当時の私には、自らの芸術体験によって得た内的な感動を、今度は自分の外側に出て一度俯瞰してみる必要があったのです。

芸術作品を作るという立場において、この、自らの様々な体験をその外側から俯瞰してみるということは、私にとって非常に重要であり常に注意を払っているポイントであります。映画の大学をリタイヤして数年後、今度は全く別の学科に入り直しました。そこで勉強したことがもう一度アーティストになりたい、自分の作品を作ってみたいという動機を与えてくれました。最初は社会学や哲学を勉強していましたが、次第に芸術哲学に強く興味をもつようになりました。そのような過程の中で様々な作品に触れる機会を得ることができ、これまで自分が経験してきた内的な作品体験についてようやく向き合うことができるようになりました。ところで、この内的体験とその俯瞰的視点という考え方について、私の中で、これだ!つまりこういうことなんだ!と言えるような出来事が最近あったので少しここで紹介してみたいと思います。

私が今所属している大学で、学生の事務的な面をサポートするオフィスにマレクさんというとても話好きの方がいます。用事があって彼のところに立ち寄ると、最近あったことや最近聴いた音楽などについて色々話したりするのですが、これがすごく楽しいんです。彼は音楽が好きで古今東西様々なジャンルの音楽をオフィス内で流しています。そんな彼に何か最近オススメの音楽はないかと尋ねると、これは私が最近最も「感動した」音楽だと言って彼のお気に入りを聴かせてくれます。その時、彼は感動を表す言葉として「touch」という言葉をよく好んで使うのです。

この「touch」という言葉は、感動を表す表現として私の脳内辞書にストックされていますが、何か感動を伝えるという状況になった時、私はよく「moved」を使っていました。よくよく考えてみると、この「moved」という表現は、自分の内的体験の感動についてより多くを表現しているのに対し、「touch」とはその感動のプロセスの中で感動を与えてくれた作品の存在が可視化されるようなイメージを与えてくれます。何に私は感動させられたのか、なぜ感動したのか、その感動のプロセスにおける他者が見えてくるのです。もちろん、感動するということは、何か感動を与えてくれる対象があって、その対象が私たちの心の琴線に触れるからこそあなたは感動するんだ、それは至極あたり前のことじゃないかと言われればそれまでなのですが、では、なぜその対象は私に感動を与えたのか。その対象全体が私に何か影響を与えたのか、それとも、何か一部の特徴的な要素が影響を与えたのか、また、なぜ感動を覚える時、私はこのような名状しがたい感覚に包まれるのか。。。。。。このようなことを考えていくと、私にとっては実に魅力的な問いの数々がそこに見えてくるのです。

私たちに感動を与える対象そのものについてよりファンダメンタルに考えていくと、そこでは摩訶不思議な問いが私たちを待ち受けています。例えば絵画や彫刻の素材に注目してみるなら、それらは紙や布、木や石、あるいは粘土や鉄などでできています。形式という面に注目してみると、そこには着色が施されたり形が変形させられたりしています。作品の素材的な側面についてよくよく考えてみると、それは「物」でしかありません。そうです、「物」なのです。しかし、例えば、先ほどのイコンや仏像のような作品において、それは物という側面を持ちながらも、人々の心に神との出会いをもたらす存在にさえなることができるのです。なぜ石や木が神の実在のようなものになれるのでしょうか。それは、その素材に付与された特定のイメージがそうさせるのでしょうか。それとも、物そのものがそのようなポテンシャルをもっているのでしょうか。あるいは、その素材とイメージが、何か完璧な結びつきのもとで表現される時そのような瞬間が見るものの感覚へともたらされるのでしょうか。これは、私としては、芸術作品を制作する上で最も興味深い点です。私たちが芸術作品との出会いの中で感動するとき、あるいはそれ以上の何か至高体験を得る時、私たちのそのような内的な体験「moved」を超えてその瞬間をもたらす作品そのもの「touch」にどこまでも迫ってみたいと思うのです。

最近ストップモーション・アニメーションの授業を受講しているのですが、初めての授業で受けたレッスンは、二枚の紙切れで蝶を表現してみようというものでした。蝶なんて、ただその辺をひらひらと飛んでいるだけと思いきや、紙二枚でその動きを表現しようとするとそれは全然簡単ではないんです。蝶が舞う雰囲気、蝶が対象の周りを旋回する雰囲気、それに遠近感をつけたりすると本当によく蝶の動きを知っていないとできないんです。先生がおっしゃっていたのは、使っているのはただの紙切れ2枚ですが、それによって目の前に生きた蝶を誕生させる、それだけではなく、そこに蝶の意思やストーリーさえも描き出す。これは本当に素晴らしいことなんです、と。それを上手く描くためには、まず対象が、生き物が、自然がどのような動きを持ち、そして意思を持っているのかを知らなければならないのです。私は日々の生活の中であらゆる他者からあらゆるレベルの影響を受けていますが、その他者とは、その存在とは一体なんなのでしょうか。それらと私とが出会う時、なぜ私の中にはある特定の感情、感覚、感動が起こるのでしょうか。私はとにかくそれを知りたいのです。今日は、私が芸術作品を作りたいと強く思った動機についてお話しさせていただきました。次回の投稿もまたお楽しみに!

HAL

HAL

HAL

アーティスト
ポーランド、ポズナン在住
現在は映像作品を中心に作品制作を行っています。
2015年からポズナン芸術大学に籍を置いています。

Reviewed by
美奈子

心を揺り動かされる、"Moved"な経験は誰にでもあると思います。しかし一見受動的にみえるそうした感動経験は、実は他者と自分の双方向的運動によりはじめて成立するものかもしれません。HALさんの投稿を読んでいると、いままで自然と接していた他者について、もっときめ細やかによく見てみよう、世界に目を見開こうという、前向きな気持ちになります。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る